坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年9月30日 大人と子どもの礼拝説教 「トマトはトマト」

聖書  マタイによる福音書25章14〜30節
説教者 山岡 創牧師 


25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」



          「トマトはトマト」
 先日9月16日(日)〜17日(月祝)にかけてサムエル・ナイトが行われました。黙想、奉仕、交わり、礼拝を柱とした青年、中高生の宿泊プログラムです。年間5回前後行い、もう7年目になります。
 今回は初めて、他教会との合同の形で、埼玉新生教会と合同で行いました。私たちの教会から15名、埼玉新生教会から20名が参加しました。日曜日は埼玉新生教会に宿泊したので、坂戸いずみの中高生、青年は、いつもと場所が違って、おもしろかったのではないでしょうか。
 今回のサムエル・ナイトで、夜の時間に聖書の御(み)言葉を黙想し、分かち合う時間を設けました。その時にも取り上げたのがマタイによる福音書(ふくいんしょ)25章14〜30節〈タラントンのたとえ〉でした。青年と中学・高校生の2グループに分かれ、聖書を読んで考え、自分が感じたことを語り合います。更に2016年度の『信徒の友』に連載されていた〈今を生きる若者のリアル〉というシリーズの中から、《どこまで味方・祈って決める・人と比べちゃう》というテーマの内容を読んで、再び語り合いました。
 その中で、〈‥わたしにはあまり賜物(たまもの)がありません。どうしたらいいですか?〉という若者からの問いに、著者である大嶋重徳さんが、こう答えていました。
 神さまは「恵みはあなたの上に十分だ」とおっしゃっているのです。問題は賜物がないと決めつけているあなた自身です。その理由は、賜物を才能と勘違いしていることです。賜物とは神さまからいたいだいたもので、神さまのために用いることが求められます。もちろん才能もその一つです。しかし神さまからの賜物は、才能だけではありません。時間もお金も、友人も仕事も、機会も神さまからいただいたものです。
(『信徒の友』2017年3月号)
賜物を才能と勘違いしている。私たちにも、そういうところがあるのではないでしょうか。だから、つい他人と比べて、自分には賜物があまりないと思ってしまうのです。

今日読んだたとえ話で、主人は僕(しもべ)たちに財産を預けて旅に出ます。つまり、これは神さまが私たち人間に賜物を授けている、というたとえです。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン‥‥タラントンというのは、当時の貨幣の単位です。だから、私たちはまず単純に、神さまから預けられたものはお金だ、財産だと勘違いするかも知れません。
またタラントンは英語のタレントという言葉になります。これは“才能”という意味ですから、神さまからのタラントン、賜物を才能と勘違いしても不思議ではありません。
 けれども、大嶋先生が言うように、賜物とは才能や能力とは限りません。今日のたとえ話の15節に「それぞれの力に応じて」、タラントンを預けたとありますから、どちらかと言えば、「力」と言われているものの方が才能や能力を表わしているのかも知れません。だから、預けられたタラントンとは、単純に才能や能力のことではない。才能も含めて、時間もお金も、友人も仕事も、機会も、家族も健康も、成功だけでなく失敗や挫折(ざせつ)さえも、苦しみや悲しみさえも、病気さえも、自分の人生におけるありとあらゆるものが、自分にとってのタラントン、神さまから預けられた賜物ということなのではないでしょうか。

 大切なことは、自分に預けられたタラントンとどのように向き合うか。別の言葉で言えば“自分の人生”とどのように向き合い、どのように用い、生かしていくかということです。このたとえ話は、読む度に色んなことを考えさせられ、教えられますが、今回、私が黙想して示されたことは、“自分らしく”生きること、“自分のままに”生きること、“自分”を生きることを、主イエスは教えておられるのではないか、ということでした。
 このたとえ話を読みながら、ふと不思議に思うことの一つは、どうして5タラントン預けられた者が商売して儲けたのが5タラントンなのか?どうして2タラントン預けられた者の儲けが2タラントンなのか?ということです。5タラントンの者が10タラントン儲けたっていいではないか、反対に2タラントンとか1タラントンの儲けしかなかったということだってあり得るだろう。2タラントンの者が20タラントン儲けるかもしれないし、元手をすべて失ってしまうこともあるかも知れない。商売とはそういうものでしょう。
 けれども、このたとえ話では、5タラントンの者は5タラントンの儲け、2タラントンの者は2タラントンの儲けと、儲けた額が預けられた額にちょうどピッタリ見合っているのです。ということは、自分の賜物に、自分の人生に見合った生き方をしたということであり、それは、自分らしく、自分のままに、自分を生きたということではないか、と思ったのです。5タラントンの者が10タラントン儲けるように、2タラントンの人が5タラントン儲けるように、1タラントンの人が2タラントン儲けるようにと主イエスは求めておられない。自分らしく、自分のままに、自分を生きることを、神さまは喜ばれるのです。
  トマトがねえ トマトのままでいれば ほんものなんだよ
  トマトをメロンに みせようとするから にせものになるんだよ
  みんなそれぞれに ほんものなのに
  骨を折って にせものになりたがる
 これは、相田みつをさんの〈みんなほんもの〉という詩です。ほんと、そうだよなぁ、と思います。今回の説教題「トマトはトマト」は、この詩をヒントに付けました。実は、この詩の元の出典が分かりませんで、捜し当てようと思い相田さんの著書を読んでおりましたら、『にんげんだもの』という著書の中で、〈トマトとメロン〉という、似たような、しかし別の詩を見つけました。
  トマトにねえ いくら肥料をやったってさ メロンにはならねんだなあ
  トマトとね メロンをね いくら比べたって しょうがねんだなあ
  トマトより メロンのほうが高級だ なんて思っているのは 人間だけだね
  それもね 欲のふかい人間だけだね
  トマトもね メロンもね 当事者同士は 比べも競争もしてねんだな
  トマトはトマトのいのちを 精一杯生きているだけ
  メロンはメロンのいのちを いのちいっぱいに 生きているだけ
  トマトもメロンも それぞれに 自分のいのちを 百点満点に生きているんだよ
  トマトとメロンをね 二つ並べて比べたり 競争させたりしているのは
  そろばん片手の人間だけ 当事者にしてみれば いいめいわくのこと
  「メロンになれ メロンになれ カッコいいメロンになれ!」
  と尻ひっぱたかれて ノイローゼになったり
  やけのやんぱちで 暴れたりしているトマトが いっぱいいるんじゃないかなあ
 トマトはトマトとして生きれば、それで本物。メロンもメロンとして生きれば、それで本物。自分のいのちを、いのちいっぱいに生きれば、人生は輝いている。受け止めて、感謝して、喜んで生きれば、人生は輝いている。自分らしく、自分のままに、自分を生きることを、神さまは私たち一人ひとりに望んでおられるのだと思います。そのように生きた人を見て、神さまは「忠実な良い僕だ。よくやった」(21、23節)と喜んでくださるのでしょう。“あなたは、自分の人生をしっかりと生きたねぇ”とほめてくださるのでしょう。

 そしてそれが、「天の国」(1節)を生きることです。マタイによる福音書では、イエス様はたとえ話をなさる時、いつも「天の国は‥」と言って、たとえ話を語ります。天の国、といっても“あの世”のことではありません。死んだ後の世界のことではありません。地上の命をどう生きるか。人生をどう生きるか。“今”をどう生きるか、ということを語っています。この世の人生を、天の価値観の中に置いて、神さまの愛の中に置いて生きるとは、どのように生きることか、信仰による生き方を、命本来の生き方を教えているのです。
 自分らしく、自分のままに、自分を生きていきましょう。人と比べることがあります。落ち込むことがあります。優越感に浸ることがあります。どうして?と嘆く時もあります。“‥たら”“‥れば”と愚痴をこぼす時もあります。社会環境や他人のせいにすることもあります。私たちは、弱い人間です。
けれども、人と比べ、自分の人生を呪い、「泣きわめき、歯ぎしり」(30節)したまま終わるのではなく、そう思う時、主イエスの教えを思い出したいのです。そして聖霊の助けを祈り、神の御心(みこころ)に立ち帰らせていただきましょう。自分は自分。自分らしく、自分のままに、自分を生きていこうと。
タラントンとは人生そのものです。喜びや楽しみ、成功もあるでしょう。そういう都合の良いことだけでなく、失敗や挫折、苦しみや悲しみも、神さまから預けられたタラントンです。「それぞれの力に応じて」とありましたが、神さまは耐えられない試練を私たちに負わせない(Ⅰコリント10章13節)、と信じていきたいのです。それらを受け取ることができたら、私たちのタラントンはとても大きく豊かでしょう。そして、失敗や挫折、苦しみや悲しみの中においてさえも、いや、そういうものの中でこそ、神の恵みを見つけることができたら、神の支えを感じることができたら、神の愛を信じることができたら、私たちが人生において儲けたタラントンは、とてつもなく豊かで大きいのではないでしょうか。信仰の大きな実りではないでしょうか。そんなふうに“自分”を生きられたら‥‥、生きていきたいと心から願います。祈り求めていきたいと思います。
 もう一つ、相田みつをさんの詩を紹介して終わりましょう。
  この世は 
わたしが わたしになるところ
  あなたが あなたになるところ (『にんげんだもの』14頁)


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