坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年12月16日 待降節第3主日礼拝説教「神は共におられる」

聖書  マタイによる福音書1章18〜25節
説教者 山岡 創牧師 

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



          「神は共におられる」  
                〜 I am on your side.〜
 救い主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、喜びの祝祭です。神の独り子であり、救い主であるイエスの誕生を喜び、そのイエスによってもたらされる私たちの救いを喜ぶ時です。そうだからなのでしょう、クリスマスにまつわる伝説や、それにちなんだ物語は、心温まる美談が多いと感じます。皆さんも、そういった美しいクリスマスの伝説や物語を一つや二つ、ご存じでありましょう。
 けれども、マタイによる福音書に記されている最初のクリスマス物語は、美談ではありません。今日読んだ聖書の箇所をじっくり考えてみると、むしろ過酷であり、リアルです。マタイは、クリスマスの物語を単純に美談にはしていないのです。
 賀来周一さんという、牧師であり、キリスト教カウンセリングセンター相談所長である方がおられます。その賀来先生が、『クリスマスの風景』という著書の中で、“救い主はきれいごとの中においでにならない”と書いておられます。
 (マタイによる福音書に描かれている)こういうヨセフの心情の表現には、心憎いほど人間というもののリアルさが描かれています。もしヨセフが寛大な人間で、不倫のマリアを赦(ゆる)したなどと聖書に書いてあれば、美談にはなるかも知れませんが、それでは人間のリアルな姿を描き出すことにはなりません。聖書は、ありふれた美談なんぞには関心がないのです。人間が当然持っている生々しいリアリティーの中で救い主イエスは生まれたと言いたいのです。言い換えれば、救い主は、そのヨセフの悩みに象徴されるような人間の世界を背負っているということでもあります。救い主はきれいごとの中においでにならないということなのです。(前掲書98頁)
 救い主はきれいごとの中にはおいでにならない。けれども、逆に言えば、自分の生活の中で湧き起るリアルな苦しみや悲しみ、悩みの中に‥、どこに出口があるのだろう、光があるのだろう、希望があるのだろうと嘆き、絶望しそうになるような私たちの現実の中に、救い主はおいでになる。そこで、救い主イエス・キリストと出会うことができる。“救い”と出会うことができる。そういう喜びを、そういう慰めを、マタイはクリスマス物語の中で語ろうとしているのです。

「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)を、マタイは次のように語り始めます。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。
 使徒信条(しとしんじょう)において私たちは、“主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ”と信仰を告白します。この告白の根底にあるのは、「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)という信仰です。天地を創造し、人に命をお与えになる神の力、その全能を信じる信仰です。それが私たちの信仰の基本姿勢です。
 けれども、自分の婚約者である女性が、自分と一緒になる前に身ごもったら、私たちだったら何を考えるでしょうか?‥‥当然、自分以外の男性との関係を想像し、疑うことでしょう。その事実、事情を知ったら、ショックを受け、傷つき、怒り、あるいは戸惑い、どうしたらいいかと悩むでしょう。
 2千年前の、この時代の人々は、科学も進んでおらず、私たちよりも信仰が深いはずだから、「聖霊によって身ごもっていること」を、素直に信じることができただろうと考えるのは間違いです。もしそうだとしたら、ヨセフはこれほど悩まず、迷わず、それこそ“美談”になっていたでしょう。けれども、決してそうではありません。当時の人々も、ヨセフも信じられないのです。ヨセフも、私たちが想像し、疑うことを疑い、たじろいでいるのです。
 だから、明らかになったのは「聖霊によって身ごもっていること」ではありません。「聖霊によって」は、ひとまずカッコの中に入れて考えなければなりません。ヨセフの前に明らかになったのは、マリアが「身ごもっていること」、ただそれだけだったのです。

 この事実、この現実を前にして、ヨセフは苦悩します。そして苦悩の末に、
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。
と記されています。ユダヤ人には、モーセを通して与えられた神の掟である律法がありました。それによれば、人が姦通(かんつう)の罪、不倫の罪を犯した場合は、石打ちの刑で処刑する、と定められています。もしもマリアの事情が姦通の罪だったとして、そしてヨセフが“神の掟に従う人”という意味で「正しい人」であったならば、当然、マリアのことを表さたにして、処刑しようとしたかも知れません。それが神の掟、当時のユダヤ人の常識的な価値観からすれば、正しいことだからです。
 けれども、ヨセフの考えと決心にはどうも、自分は裏切られた、という怒りや恨みが感じられない気がします。怒りと正しさに任せて、事を決着しようとはしていないように感じます。むしろ、事を荒立てないようにしようとしている。マリアのことを表ざたにして彼女を処刑するのではなく、彼女の命を守ろうとしている。だからと言って、この事実にショックを受け、傷ついた自分が、マリアと結婚して夫婦になるのは、あまりにも辛い。だから、離縁しようとしている。そんなヨセフの決心に、この事実を前にしたヨセフの辛く、苦しい気持と共に、マリアを思いやる切ない愛が、本当にギリギリのところで、生々しく、リアルに表れていると感じるのです。

 ヨセフは決心しました。けれども、その決心を実行することに、なおも迷い、悩みます。夢に見るほど悩んでいるのです。
 その夢の中に天使が現れます。天使は夢の中で、ヨセフにこう言いました。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(20〜21節)。
 どこまで天使が言ったのか、おそらく後付けの部分もあると思います。けれども、少なくとも「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と、この言葉は、はっきりと伝えたことと思います。
 マリアが身ごもったという事実を前にして、ヨセフはその事情が分からず、想像するほかなかったでしょう。あるいは万が一、その事情を知っていたとしても、それを口にし、表ざたにすることはできなかったのでしょう。
 その苦悩の中に心底、神の言葉が届きます。“マリアの子は聖霊によって宿ったのである。そう信じなさい”と。訳の分からない事実、割り切れない現実。それをネガティブに、悪い方向にばかり考えては、人生に光の射す窓は開きません。自分にとって不都合で、苦しく悲しい現実がある。けれども、その中にも神の業が現れる。神の恵みが現れる。そう信じなさい。ヨセフは、そのように天使から語りかけられたのです。
 ヨセフが直面している現実、そして私たちが生活の中で味わう苦しみ悲しみはリアルなものですが、天使というものは、目に見えるリアルな存在ではありません。ですから、天使が現れて、神の言葉を告げたという表現は、言い換えれば、ヨセフが、そのように信じて、受け止めたという彼自身の信仰を表わしているのです。
 では、ヨセフはどのようにして、苦しみの中に、神の業、神の恵みを信じて受け止めたのでしょうか。それは、聖書の御(み)言葉を通して、だと思うのです。23節に預言者の言葉が引用されています。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。
これは旧約聖書・イザヤ書7章14節の言葉です。ヨセフは、マリアが身ごもっている現実にたじろぎ、傷つき、苦しみ悩み、考えた末に決心します。それでも、迷い、決心を実行できないまま、果たして神さまは何と言われるだろうかと聖書を読み始めたのではないでしょうか。当時、紙に書かれた聖書はなく、ユダヤ人は子どもの頃から旧約聖書を丸暗記しますから、自分の記憶の中に刻まれている聖書を開いて、神の語りかけを探し始めたのではないでしょうか。そして、イザヤ書の御言葉と出会ったのです。
おとめが身ごもって男の子を産む。その言葉を、自分が味わっているマリアの妊娠という現実と重ね合わせながら、その名はインマヌエル、神が我々と共におられる、という言葉を、自分に対する慰めとして信じ、受け止めたのです。訳が分からず、どう解決したら良いのかも分からないマリアの妊娠‥‥‥けれども、その苦しみの中で、神は自分と共にいてくださると信じて受け止めたのです。言い換えれば、何が起ころうと、何がどうなろうと、人からどのように思われようと、神さまは自分の“味方”なのだ。神さまは、私の側に、私と同じサイドに立っていてくださる。そのように聖書の言葉によって示され、気づかされ、信じて受け止めたのです。
それは、ヨセフにとって、深い慰めであり、暗闇の中で光を見るような救いだったに違いありません。イエスという名前は“神は救い”という意味だそうです。苦しみの現実の中で、まさに“神は救い”とヨセフは実感したに違いありません。そう感じて、ヨセフは、生まれた子どもをイエスと名付けたのかも知れません。

 インマヌエル。神は我々と共におられる。これは、マタイが私たちに伝えようとする神の恵み、人生の真理です。この福音書のいちばん最後でも、復活した主イエス・キリストが弟子たちに言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)と。神は我々と共におられる。これは、マタイだけではなく、聖書そのものが私たちに伝えようとしている恵みであり、真理だと言ってもよいかも知れません。
 先日、ある方から、“聖書が言っていることは分かるし、善いことが書いてあるとも思う。けれども、どうやって信じたらよいのか分からない”と言われました。信じ方が分からない、ということです。
 聖書によって示される人生の真理は、理屈ではありません。理屈を積み上げて、だからこうだ!と結論が出るようなものではありません。信じるとは、言い換えれば、理屈や理論では説明したり、証明したりできないことを、そうだと思い込むということでしょう。そういう前提で生きる、ということでしょう。神が私と共におられる。私を愛してくださる。その真理を聖書によって気づかされ、そう思い込んで、その真理を自分の人生の前提に定めて生きる。それが信じるということだと思います。
 私たちの人生の現実は割り切れないことが多いです。なかなかすっきりと解決はしないです。ヨセフもそうです。彼は、マリアを妻として迎え入れましたが、「男の子が生まれるまで関係することはなかった」(25節)と記されています。つまり、自分の人生の現実を割り切れたわけではなかったのです。解決できたわけではなかったのです。「関係することはなかった」という御言葉は、そのリアルな現実を物語っています。美談ではないのです。
 けれども、“そこに”神が共にいてくださる。うまくいかない仕事や学業の中に、解決しない家庭問題の中に、愛する者を失った悲しみの中に、病を背負った苦悩の中に、面倒な人間関係のトラブルの中に、神は味方として共にいてくださる。その恵みを信じたのです。そこに深い慰めがあり、人間の知恵を越えた希望があります。
 だから、ヨセフは自分の決心を翻(ひるがえ)します。マリアと苦しみを共に負い、分かち合う道を選びます。この子は聖霊によって身ごもり、生まれたのだ!どんなに声高に叫んでも、だれも信じてはくれないでしょう。でも、それでいい。神は自分たちと共にいてくださる。だから、この苦悩を分かち合って、マリアと共に生きていく。そこには神に従う人の信仰があり、愛があります。


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