坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年1月20日 主日礼拝(講壇交換礼拝)説教「神の形、神の愛」

聖書     創世記1章26~31節
説教者 山岡 創牧

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 


                      「神の形、神の愛」
  新しい年、2019年を迎えました。今年は特に、天皇陛下の生前退位によって元号が変わる年です。そういう意味では、私たち日本人にとって印象深い年になることでしょう。大正、昭和、平成と来て、今度はどんな元号になるのでしょうか?西暦の方が、通算年数が分かりやすいなぁ、と思うのですが、元号には、日本の歴史、文化、民族といったものの独自性が現れていると言うことができるでしょう。つまり、意識する、しないに関わらず、日本の多くの人の精神は天皇制と結びついている、ということです。

 1月2日の天皇陛下の新年の挨拶(あいさつ)には、約16万人の人が訪れました。当初、挨拶は午前中3回、午後2回の予定だったそうですが、あまりの人の多さに、急きょ2回増やして、対応したということです。それが、日本人の心と天皇制が結びついていることを象徴しているように感じます。

もちろん私たちも日本人の一人です。私も日本の文化や生活の良さを思い、時々、“日本人で良かった”と感謝することがあります。

 けれども、私は、自分の精神が天皇制と深く結び付いているとは考えていません。“自分は何者なのか?”という自己規定、そのことをちょっと難しい言葉で、アイデンティティー(自己同一性)と言います。それは、自分がどんなものと結びつき、何を人生の土台として生きているか、それによって変わって来ます。

 私たちは、どんなものと結びつき、何を土台として生きているのでしょうか?それは、イエス・キリストです。イエス・キリストの父なる神です。クリスチャンであるということは、そういうことです。私たちは、神によって造られ、イエス・キリストを通して愛されている存在、それが私たちのアイデンティティーです。

私たちのアイデンティティーとは何か?元号が変わる2019年という年は、そのことを改めて考えてよい年、考えるべき年だと思うのです。

 

そういう思いから、創世記1章の天地創造物語、特に人間の創造の部分を取り上げてみました。

余談ですが、天地創造は、神さまによって6日間でなされたと記されています。人によっては、この内容を全くナンセンスな“おとぎ話”と見なし、信じる価値もないと考える人がいます。科学的に考えれば、そうでしょう。ビッグ・バンや進化論といった学説の方が、科学的にははるかに説得力があります。

けれども、創世記の創造物語は、天地創造の現象を、つまり“どのようにして天地ができたか?”を説明しようとしているのではありません。それは、科学の仕事でしょう。聖書は、天地がどのようにしてできたかという現象ではなく、“なぜできたか?”という理由を語っているのです。そして、創世記は、神の意思(御心)によってできたのだ、と語っているのです。それを信じるか、それとも、この世界は、そして私たち自身は、何かの“偶然”によってできたのだと考えるか、それはその人の考え方次第です。つまり、信仰の問題です。

 だから、天地創造物語を事実と考えて、科学と同じ土俵で、どちらが正しくどちらが間違っているかと勝負する必要は全くありません。これは覚えておいてください。

 

 さて、創世記において、人が創造されたのは第六日でした。そして、人の創造において注目すべきことは、人が「神にかたどって」造られた、ということです。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26節)、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(27節)と、「かたどって」ということが3度繰り返され、強調されています。

 かたどる、というのは、例えばクッキーをつくる時に、生地を伸ばしておいて、鳩の形やクリスマスツリーや星の形の道具を生地に押し当てて、それと同じ形のクッキーをつくることを、かたどると言います。

 では、人が神の形(イマゴ・デイと言います)にかたどって造られたとはどういうことでしょうか?人が、手が2本、足が2本あって、体のトップには頭があって、頭には目と鼻と耳と口がこういうふうに付いている‥‥それが神さまにかたどって造られた、ということでしょうか?そうではないと思います。神にかたどって、というのは、そういう外側の形ではなく、目には見えない内側の形だと思うのです。さあ、それは何でしょうか?

 

 皆さんの中で何かをつくることが趣味の人はいますか?私は作ることが大好きです。11月頃から、家の中をすっきりさせようと思って、リビングと玄関のスペースに合わせて、手作り家具を3つ作りました。きっかけは、テレビのボードを13年ぶりに替えたことでした。部屋の角にあったテレビ・ボードに替えて、これは既製品ですが平面のボードにしました。それを機に何とかゴチャゴチャした部屋をすっきりさせたいと思い、靴箱を作り、コートかけを作り、元々作ってあったテーブルをリフォームしました。その他、新聞ラックや赤い灯油のタンクやパジャマ等を入れてキャスター付きのラックを作りました。部屋がすっきりして、スペースと動線に余裕ができました。

 子どもの頃は工作少年でした。ボール紙とハサミとセロハンテープで、自分の頭に思い浮かぶロボットや戦闘機、ロケットなどを、学校から帰って来て、夕方から夜までご飯も食べずに作りました。何日も、何カ月もかけて、1メートルある宇宙戦艦ヤマトをつくったこともありました。けっこうディテールにこだわりました。

 昨年、実家からその当時作ったロボットと花札が出て来て、引き取って来ました。なんで花札なんか?と思う方もおられるでしょう。実は、小学校5、6年の時の担任が花札好きの先生で、子どもたちに花合わせのゲームを教えてくれて(もちろん賭け事はしません!)、放課後によく相手をして遊んでくれました。その影響で、自分で花札を作ってみようと思ったわけです。笑えるのは、その花札の1枚に“任天堂”とメーカー名を書いてあったことです。子どもだったので意味が分からなかったのでしょう。

改めて自分が作った花札やロボットを見て、我ながらよくここまで‥‥と思いました。それらの作品には、子どもなりに、自分の“魂”が込められている、と感じました。

 モノ作りをする人は、自分の作品に、自分の魂を込めて作ります。別の言葉で言えば、“愛”を込めて作ります。神さまもそうだと思うのです。いや、私たち以上、比べものにならないほど愛を込めて、私たち一人ひとりをお造りになったのだと思うのです。だから、私たちの内には、神さまの愛情がたっぷり詰まっています。

 31節に、神さまが自分のお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と評している言葉があります。つまり、神さまは、自画自賛して“最高傑作だ!”と言っているのです。私たち一人ひとりは、画一的な大量生産ではなく、神さまが膨大な愛を込めて、個別にお造りになった最高傑作なのです。同じものは一つもない、失敗作なんて一つもないのです。

 それなのに、私たちは劣等感を感じ、自分のことを失敗作だ、ダメ人間だと思うことがあります。そういう気持は、だれしも経験したことがあるのではないでしょうか。それが、人と比べ、また見える結果を気にして生きている私たちの心情です。

けれども、私たちのそんな気持を知ったら、神さまは悲しく、悔しい気持になるのではないでしょうか。そして、私たちに向かって、きっとこう叫ぶでしょう。“きみは失敗作なんかじゃない。ぼくの最高傑作なんだ!”と。

 小学校3年の時でしたか、自分が作った作品を友だちからバカにされたことがありました。悔しくて、気がついたらその友だちの上に馬乗りになって殴っていました。

 神さまもきっと悔しかったに違いありません。この後、創世記3章には〈エデンの園〉の物語があります。人が蛇にだまされて、神さまとの約束を破り、罪に陥る物語です。自分が最高傑作だと喜んでいるものを、エデンの園で蛇にバカにされ、汚され、造り変えられてしまって、神さまも悔しくて、それこそ蛇に殴りかかりたいようなお気持だったかも知れません。“私の最高傑作に何てことをするんだ!”と。

 他人から言われても、神さまは悔しく、悲しい気持になるとすれば、まして本人である私たちが、自分のことを、失敗作だ、ダメ人間だなんて思ったら、きっと神さまはとても悲しむに違いありません。“違うよ、きみは僕の最高傑作なんだよ。僕がきみの中に、ぼくの愛を、これでもかってほど込めて造ったのだよ”と。

 

 人が神にかたどって造られたとは、私はそういうことだと感じています。神の愛が、これ以上ないぐらい込められているのです。そして、この神の愛が見えなくなっている私たちに、神さまは、主イエス・キリストを通して、ご自分の愛を思い出させてくださいました。この世にご自分の独り子を人間にして遣(つか)わし、ご自分の愛を知らせるために、十字架の上で神の独り子イエス・キリストの命をお架けになったのです。私たちの内に込められた神の愛は、神さまが独り子イエス・キリストの命を捨ててでも優先しようとするほどのものなのです。この神の愛こそが、私たちの内にある見えない神の形であり、私たちが何者か(アイデンティティー)を定めるものです。

 

 この神の愛を込められているからこそ、私たちは、神さまが造られた世界を「従わせよ」「支配せよ」(28節)と治めることを託され、任されています。愛がなければ、それは“力と欲望”による支配になってしまいます。神の形に基づいて、愛によって治め、愛によって世界に、人に仕えることが求められています。

 インドのスラム街で人々に尽したマザー・テレサは、ノーベル平和賞を受賞しました。その授賞式でのスピーチの後で、記者団の一人から“自分たちが世界平和に貢献するためには何をしたらよいでしょうか?”と質問された時、マザー・テレサは次のように答えたそうです。

  世界平和に貢献するためには、今日、家に帰って家族を愛してください。

 私たちは、大きなことはできないかも知れません。でも、身近なところで、家族や友人、同僚といった人々を愛していく。それが世界を治めること、すなわち世界の平和に貢献することになります。

 新年2019年、改めて私たちのアイデンティティーが神の形に、神の愛にあることを信じ、確認しながら、神さまを愛し、自分を愛し、人を愛し、世界を愛することを心がけて歩みましょう。

 

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