坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年2月3日  主日礼拝説教「生きる姿を信じなさい」

聖書  ヨハネによる福音書10章22~42節
説教者 山岡 創牧

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30 わたしと父とは一つである。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
10:34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。
10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。
10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
10:39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
10:40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。
10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」
10:42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

          「生きる姿を信じなさい」
  エルサレム神殿では、1年を通して様々な祭りが行われました。神殿奉献記念祭もその一つでした。「冬であった」(22節)とありますが、今でも12月末にこの祭りは行われているとのことです。
 主イエスも、父なる神を礼拝するために、この祭りに参加しておられました。すると神殿の境内(けいだい)を歩いていた主イエスをユダヤ人たちが取り囲んで、詰問(きつもん)しました。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)
それに対して主イエスは、
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている」(25節)
とお答えになりました。今日は、この“行う業が神を証しする”ということを、ご一緒に考えていきたいと思います。

 さて、当時ユダヤ人の間には、「メシア」と呼ばれる、神さまに遣(つか)わされてやって来る救世主を待望する風潮がありました。ローマ帝国に戦争で敗れ、支配されていたユダヤ人は、独立を勝ち取り、自分たちを屈辱と苦しみから解放する英雄としてのメシアを待ち望んでいたのです。そういう風潮の中で、多くの“自称メシア”が起こりました。彼らはローマ帝国に対して反乱を起こし、そして滅んでいきました。
主イエスは自称メシアではありません。主イエスが公に現れ、病人や障がいを負った人を癒(いや)し、奇跡の業(わざ)を行い、神殿で神を説かれた時、周りの人々が“この人はメシアではないか”と、その力に期待したのです。
けれども、主イエスは、自分に従う人々を率いて反乱を起こそうとはしない。そのような政治的活動ではなく、純粋に宗教的活動、宣教をされる。そして、その活動においてユダヤ人が奉じる律法の掟に違反するような行動をしばしば取る。ユダヤ人が期待するようなメシア的な力やカリスマ性はあるが、同時に律法の違反者でもある。それで、ユダヤ人たちが気を揉んで、取り囲んで詰問するという行動に出たのです。
主イエスは、「わたしは言ったが‥」と答えていますが、10章より前には、主イエスが“私はメシアである”とユダヤ人に告げている箇所はありません。唯一あるのは、ユダヤ人ではなく、サマリア人の女性に対してだけです。4章で、主イエスがサマリア人の町シカルに立ち寄られ、その井戸端でサマリア人の女性と対話した時だけです。メシアがやって来ることを知っていると話す女性に対して、主イエスが、「それは、あなたと話しているこのわたしである」(4章26節)とお答えになった。主イエスが、ご自分のことをメシアであると言われたのは唯一その時だけで、あとはすべて周りの人々の期待です。だから、「わたしは言ったが‥」と主イエスが言われるのは、言葉で言ったという意味ではなく、あくまで「父の名によって行う業」によって言った、示したという意味です。その業を見て、主イエスを信じるかどうかは、わたしの問題ではなく、あなたがたの問題だ、と主イエスは言われるのです。

 ヨハネによる福音書9章に一つの例があります。主イエスが、生まれつき目の見えない人を癒し、見えるようにする話です。その主イエスの行った業をめぐって一種の裁判が起こります。目を癒された本人は、その業を体験して答えます。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9章32~33節)。そしてこの後、主イエスに再会して、「主よ、信じます」(38節)と、あなたを救い主メシアと信じます、と言い表します。
 けれども、彼の目が癒されているという事実を見ても、彼の証言をどんなに聞いても、ユダヤ人たち、特に律法の掟を厳格に守るファリサイ派の人々は、主イエスの業を信じ、彼をメシアと信じようとはしませんでした。
このエピソードは、今日の聖書の言葉で言えば、まさに「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(26節)という実例でしょう。
 ユダヤ人にしてみれば、主イエスが、安息日には働いてはならないという掟を破って病気や障がいの人を癒したり、神殿で大暴れして祭りをぶち壊したといった“業”の方が目について、主イエスのことを救い主メシアだとは信じられなかったのです。
 同じ行い、同じ業、同じ出来事を見聞きしたとしても、その見方によって、その人の価値観によって、出て来る答えは全く違って来る。それが“信仰”というものなのです。

 先日、他宗教の信仰をお持ちの方が教会を訪ねて来ました。しばらくお話のお相手をしました。その話の中で、イエス・キリストの十字架の話題があがりました。主イエスが行った業の中で最大のものは、十字架にお架(か)かりになった業だと言うことができます。主イエスがユダヤ人に裁かれ、ローマ人に十字架に架けられ、処刑された出来事です。
あれは主イエスの敗北であり、その活動の失敗であって、信じるに足る何の利益(りやく)も見出すことができない。それでもキリスト教は本当の宗教、正しい教えだと言うのですか?といったことを問われました。
 確かに、普通に考えれば、イエス・キリストの十字架刑は、主イエスの敗北であり、主イエスの活動の失敗、挫折(ざせつ)だと見られても不思議ではありません。けれども、私たちは聖書を通して、主イエスが十字架にお架かりになったのは、私たち人間の罪のためだ。その責任を取って、私たちの罪を神さまに赦していただくための犠牲だったと受け取ります。十字架の出来事には、イエス・キリストのご自分の命を捨てた愛が、つまり“神の愛”が表されていると信じます。これは受け取り方、見方の違いです。そのように私はお答えしました。

 けれども、どうして私たちは、そのように信じることができるのでしょうか?その理由の一つは、主イエスの弟子たちが「行う業」を知っているからではないでしょうか。主イエスの弟子たちは、主イエスが捕らえられ、十字架に架けられた時、みな逃げ去りました。とある家の部屋に隠れました。ある者は尋問され、主イエスとの関係を否定しました。もし弟子たちのそのような逃げ腰の、保身の「業」だけを見たら、だれも主イエスを信じようとはしなかったでしょう。
 けれども、そんな弟子たちが、ある時を境にして、イエスは救い主メシアである、戦いに勝利する英雄ではないが、私たちの罪を赦(ゆる)し、神の愛によって私たちの魂を救うメシアである、と宣べ伝え始めたのです。いったいどうして、このような180度の転換が弟子たちの中に起こったのでしょう?
それは、主イエスが復活したからです。弟子たちが、復活した主エスにお会いし、もう一度宣べ伝えよ、と遣わされたからです。つまり、弟子たちは主イエスの復活という“神の業”を体験し、信じたのです。復活とは、死者が生き返ることとは違う、しかし体験した者を立ち上がらせるリアリティなのです。
主イエスを十字架の死から復活させる神の力。それを信じた弟子たちに、怖いものはなくなりました。彼らは何ものも恐れず、命を懸けて主イエス・キリストを信じよ、と宣(の)べ伝えました。そのために殉教者が出ました。処刑される者も少なくありませんでした。けれども、彼らは、これこそ神の御(み)心と信じて、伝道を続けました。教会は広がって行きました。やがてローマ帝国の大迫害を受けるようになりました。それでも教会はなくならず、ついにはローマ帝国が国教と認めざるを得ない宗教となりました。その流れ、その力が受け継がれ、今日のキリスト教2千年の歴史となっています。日本にもキリスト教が伝えられ、私たちの教会、私たちの信仰となっているのです。
 命をかけられるものなど、そうそうありません。弟子たちは、主イエスが命を懸けて行う業(十字架刑)を見ました。そして、自分たちの命を懸けて主イエス・キリストを宣べ伝えました。そのように弟子たちが懸けた業を知っているからこそ、私たちは、証拠だの理屈だのといったことを越えて、信じようという気持になるのではないかと思うのです。

 そして今日、主イエスが「父の名によって行う業」を見て、弟子たちがイエスは救い主メシアだと証しする業を受け継ぐのは、ここにいる“私たち”です。2千年のキリスト教の歴史の中で、神の愛を証しして来た数え切れない、有名無名のクリスチャンたちの行う業を受け継ぐのは、ここにいる“私たち”にほかなりません。
 教会の中で時々、こういう話題があがります。自分はイエス・キリストを信じている。聖書の教えに感動する。でも、その信仰を人に、言葉にしてうまく伝えられない、と。確かに、自分が信じていること、感銘を受け、感謝していることを、うまく説明できないのはもどかしいことでしょう。
 けれども、言葉によってうまく話すことがすべてではありません。もちろん、言葉で語ることができれば何よりです。けれども、主イエスが、言葉以上に、父なる神の名によって「行う業」を、「その業を信じなさい」(38節)と言われているように、私たちも、イエス・キリストを信じて「行う業」によって、つまり自分自身が生きる姿によって、キリストを語り、神の愛を証しするのです。
 そんなこと、私にはできないよ、と思われるかも知れません。確かに、私たちは、命をかけるなんて、できないかも知れない。大きなことなんて、できないかも知れない。けれども、誤解しないでいただきたいのは、善い行いが、立派な生き方が求められているのではない、ということです。善い行いや立派な生き方ができなくていい。そうではなくて、私たちがすべきことは“クリスチャンとして生きる”ということです。
 天に召された教会員のIさんが、よく“デモクリ”ということを証しされました。“あなた、それでもクリスチャンなの?”と周りから言われる。言い返せない。恥ずかしくなることもある。落ち込むこともある。でも、そんなダメな自分を思い、神さまに祈る時、神さまは、自分を愛していれることを知らせてくださる。ありがたい。その愛を信じ、愛によって生かされている。だから、私は“これでもクリスチャンです”と自分を認めることができるのです、とIさんは証しされました。
 善い行いや立派な生き方ができなくても、失敗しても、間違えても、たとえ何もできない人間だとしても、そういう自分のことを神さまは認め、愛してくださっている恵みを信じて生きる。信じて、安心して、感謝して、“だいじょうぶ”“これでよい”と自分を肯定して生きる。そういう信仰を土台として、自分のままに、自分らしく生きること。“自分”を生きること、“自分”になること。それが、地上を生きる私たちが救われた姿であり、クリスチャンの生き様だと思うのです。
 そして、そのように生き続けること。信仰を持って生きることを貫くこと。ぐらついたり、立ち止まったり、逸(そ)れたりすることがあっても、また信仰の道に立ち帰り、この信仰を喜んで生き続けること。それが、私たちにできる“神の業”です。
 そして、私たちが、心から信仰を生きているならば、自然体で信仰を生きているならば、その業、その姿から、きっと周りの人々に、自(おの)ずと“何か”が伝わります。その何かがキリストを証しします。“キリストの香り”(Ⅱコリント2章14節~)が、私たちから自然に漂(ただよ)います。

 

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