坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年2月10日 主日礼拝「自分の内に光を持つ」

聖書  ヨハネによる福音書11章1~17節
説教者 山岡 創牧

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
◆イエスは復活と命
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

 

          「自分の内に光を持つ」
 マルタ、マリア、ラザロという3人の兄弟がいました。エルサレムの近くにあるベタニアという村に住んでいました。その名前、聞いたことがあると思い出される人もおられるでしょう。ルカによる福音書10章の終りに、〈マルタとマリア〉という話があります。主イエスと弟子たちの一行が、宣教の旅の途中で二人の家に立ち寄ります。マルタはもてなしのためにせわしく立ち働き、マリアは主イエスの足もとに座って話に聞き入っていた、不満を口にしたマルタを主イエスが諭(さと)された、という話です。

 二人は、主イエスの支援者だったようです。主イエスの弟子と言えば、宣教の旅を共にする弟子を思い浮かべます。けれども、主イエスが旅の途中で立ち寄った際に、家で主イエスをもてなし、宿を提供するような在宅の弟子もいたようです。

 さて、この二人にはラザロという兄弟がいました。「病人」(1節)だったと記されています。しかも、この後の話からすれば、かなり重い、緊急性のある病だったようです。ラザロが死んでしまうかも知れない。不安を感じた二人の姉妹は、主イエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)と伝えさせました。おいでになってラザロの病気を癒してください、と暗に願ったのです。

 けれども、弟子たちは違う意味で不安でした。と言うのは、直前の10章の終わりの話で、祭りの際に主イエスがエルサレム神殿に詣(もう)でた時、ユダヤ人と衝突して殺されそうになったからです。だから、主イエスが「もう一度、ユダヤに行こう」(7節)と、ベタニアの3兄弟のもとに赴(おもむ)くと言われた時、弟子たちはその不安を口にしました。主イエスはもちろんのこと、自分たちも殺されるかも知れない危険を感じていたからです。けれども、病のために死んでしまったラザロを、その眠りから「起こしに行く」(11節)、「さあ、彼のところへ行こう」(15節)と言われる主イエスの強い決意に、弟子たちも腹をくくることになりました。その覚悟が、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)というトマスの言葉に表されているのです。

 

 ところで、今日の聖書箇所を繰り返し読みながら、私が心に留めたのは、「愛しておられる」という言葉でした。主イエスが、マルタ、マリア、ラザロの3人兄弟を「愛しておられる」、「愛しておられた」ということが3節と5節に、2度繰り返して記されています。1度読んだだけでは読み飛ばしてしまいそうな、さりげない言葉ですが、私はこの言葉に、何か“温かさ”のようなもの、安心のようなものを感じました。

 けれども、それと同時に疑問も感じました。と言うのは、「愛しておられた」という言葉の直後に、主イエスが「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」(6節)と書かれているからです。愛している、と言うなら、すぐに飛んで行って、ラザロの病気を癒(いや)してあげればよいではないか、マルタとマリアの不安を取り除いてあげればよいではないか。それなのに、どうして主イエスは、もたもたしていたのだろう?と思ったのです。

 主イエスが二日間もたもたしていたせいで、ラザロは死んでしまいました。結果的には、この後、主イエスはラザロを眠りから起こし、生き返らせるのですが、私は、自分が感じた疑問から、主イエスが「愛しておられる」ということはどういうことか、私たちが主イエスから、神さまから“愛されている”とはどういうことか、改めて考えてみました。

 私たちは、自分が神さまに愛されているというのは、神さまが自分に良いことをしてくださることだと考えるのではないでしょうか。信じて祈っていたら、神さまが良い出来事を起こし、良い結果を与えてくださる。願いを叶えてくださる。幸せをもたらしてくださる。そう考えがちではないでしょうか。今日の聖書の話で言えば、主イエスが3人のもとに、すぐに飛んで来てくださる。そして、ラザロの病気を癒してくださる。それが、神さまに愛されているということだと考えるのです。

 けれども、神に愛されているとは、そういうことではないのです。必ずしも主イエスがすぐに飛んで来て、病を癒してくださる、ということではないのです。この後、ラザロを生き返らせたのだから、病を癒すこと以上に良い結果を与えてくださったではないか、ということは、ひとまず脇に置きます。と言うのは、そういうことが信じるすべての人に起こるわけではないし、現代において、私たちが信じているからと言って、死んだ者が生き返るはずもないからです。ラザロが生き返ったということには、文字どおりではなく、別の意味を探さなければなりません。だから、この後、ラザロを生き返らせたということは、脇に置いて考えてください。

 つまり、主イエスは、私たちの都合ですぐには飛んで来ず、私たちの期待に応えて病を癒しはしないのです。それでも、です。それでも主イエスは愛しておられると、神さまは私たちを愛しておられると、聖書は私たちに語りかけているのです。

 

 そこで思い起こしたのが、オルポートというクリスチャンであり、心理学者である人の考えです。オルポートは、信仰には外発的な志向を持つ信仰と、内発的な志向を持つ信仰の二通りがあると言います。外発的な信仰というのは、

  この宗教を信じるといいことがある、神さまを信じると自分の社会的地位が守られるとか、立派になれるとか、喜びが与えられるとか、お金が儲かるとか、友だちが増えるとか、自分の世界が豊かになるとか、とにかく自分の安全、自分の地位、自分というものが高められていく、そうした欲求を満足させるような信仰形態が、外発的な宗教志向です。‥‥

ということです。しかし、この信仰では、自分に不幸が起こった時、祈っても問題が解決しない時、神さまに不満を漏らし、信じることができなくなります。

 これに対して、内発的な信仰というのは、

  ‥「私」が中心にならない。「神さま」が「私」を愛してくださるとか、「神さま」が「私」を信じてくださるとか、「神さま」が「私」を信頼してくださるというように、「神さま」の方が主人公となる信仰です。「私」のほうには、なんの資格もない、条件もない。あるいは非常につらいかもしれない、苦しいかもしれない、答えのない不条理の世界を生きている自分自身がいるけれども、そういう私を、神さまのほうが愛してくださる、神さまが信じてくださる。主役は「私」ではなくて、「神さま」のほうにある、そういう信仰です。それは究極的にどうなるかというと、神さまにすっかり「私」を明け渡す、お任せすることになります。

(以上、『現代社会の悲しみと癒し』AVACO、100~101頁)

 主イエスはすぐに飛んでは来ず、病は癒されないかも知れない。問題はすぐに解決しないかも知れない。非常につらく、苦しいかも知れない。答えのない、不条理な人生を生きるかも知れない。それでも“神さま”が“私”を愛してくださっている。目に見える好結果や幸せ、喜びはないかも知れないけれど、どんな時でも、幸せな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、どのような場合でも、神さまは私を愛しておられる。

私たちの人生の根底にある、この真実を、この恵みを信じて神さまにお任せし、安心を得る時、それがまさに、自分の内に光を持つ、ということなのです。

 主イエスは、「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」(9~10節)と言われました。主イエスは、私たちの人生を、昼と夜にたとえています。主イエスはすぐに動いてはくださらず、病は癒されない。問題は解決しない。苦しく、つらい。“どうして私にこんなことが?‥”と嘆き、悲しみ、迷っている。それは、人生の夜を、なかなか晴れ間の見えない暗闇の中を、出口の見えないトンネルの中を歩いているようなものです。解決や答えが見つからず、苦しみや悲しみの出来事を受け入れることができない。そして、神さまを信じることができず、信仰につまずいている状態です。

 けれども、その夜の闇の中で、懐中電灯を持っていれば、「光」を持っていれば、私たちはつまずかずに歩くことができます。苦しみや悲しみが私たちの人生にはあります。けれども、それがあっても、私たちはつまずかずに歩くことができる。“神さまが私を愛してくださっている”と信じる信仰、信仰という光を持っていれば、私たちは神さまにつまずかず、また“愛されているから、だいじょうぶ。これでよい”と苦しみや悲しみを受け入れて生きていくことができます。それが「昼」です。「夜」だけど「昼」の中を歩くということです。

 

 私は、今日の御(み)言葉を黙想しながら、Aさんのことを思いました。昨年の7月に自宅で、熱中症で倒れ、今も入院生活が続いています。寝たきりの状態です。倒れた時に、若干の脳梗塞もあったのかも知れません。言葉がしゃべれなくなりました。表情が動かなくなりました。元々、突発性難聴で耳が聞こえず、こちらがホワイトボードに書いた内容を認識しているのかどうか、はっきりとは分かりません。

 Aさんは、この教会が1992年に創設された時からの教会員でした。小さかった伝道所がこの地に移転して会堂建築をし、今日の教会となるまで、熱心に礼拝に出席し、祈祷会で祈り、奉仕し、献金し、キリストに仕え、教会に尽して来られた方です。人間的に考えれば、そのような方が人生の晩年に至って、どうしてこのような病気を得て、苦しまなければならないのか?という思いになります。Aさんの現状、病状のどこに「神の栄光」(4節)があるのだろうと考えてしまいます。

 けれども、Aさんは、4、5年程前に突発性難聴で耳が聞こえなくなってからも、礼拝に、祈り会に休まず通い続け、祈り会でよく、讃美歌21・463番を挙げて証しされました。

   わが行く道、いついかに  なるべきかは、つゆ知らねど

   主はみこころ、なしたまわん

   そなえたもう 主の道を  ふみて行かん、ひとすじに

 突発性難聴で耳が聞こえなくなって、この先、自分がどのようになるのか分からない。けれども、神さまが御心によって道を備え、良いようにしてくださると信じています、と暗さを見せず、いつもニコニコしながら話しておられました。その姿、その証しに、Aさんにそのように信じさせる神さまの栄光を思いました。それはまさに、どんな時でも“神さま”が“私”を愛してくださっている、という信仰です。その信仰が、今も、病床に伏していても、Aさんの心の中に生きて働き、「光」となっていると私は信じたい。

 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)。主イエスは“私”を愛しておられた。その信仰こそ、私たちの内で、私たちの人生を照らす「光」となります。支えとなります。安心となります。そして、私たちの内にある信仰という光が、たとえ小さな光であっても、神さまを輝かせる「栄光」となるのです。

 

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