坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年2月24日 主日礼拝 「愛は涙となる」

聖書  ヨハネによる福音書11章28~37節
説教者 山岡 創牧師

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

          「愛は涙となる」 

                              ~ イエスは涙を流された ~

 ラザロは亡くなりました。ラザロの姉妹であるマルタとマリアは、彼が危篤(きとく)の状態だった時に、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)と主イエスに知らせていました。けれども、主イエスは間に合いませんでした。主イエスが3人が暮らしているベタニアに着いた時には、ラザロはもう死んでしまって4日が過ぎていました。

 主イエスがおいでになったと知らせを受けて、マルタは主イエスを迎えに行きました。そこで、主イエスはマルタと言葉を交わして、その後、家に残っていたマリアを呼ばれます。たぶん、弔問客(ちょうもんきゃく)でごった返している家に着く前に、マリアとも言葉を交わしたいと思われたのではないでしょうか。それで、マリアはやって来て、主イエスを見るなり、足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)と恨み言を言って泣きました。その時、主イエスは「心に憤りを覚え、興奮し(た)」(33節)というのです。 今日の聖書の御(み)言葉を黙想し、説教の準備をする中で、私がいちばん不思議に感じ、よく分からなかったのが、この主イエスの「憤り」でした。主イエスはどうして憤ったのだろう?何に対して憤り、怒ったのだろう?それがピンッと来なかったのです。

  分かりにくい、と感じているのは、私だけではないようです。例えば、新約聖書にはいくつかの種類がありますが、この「憤りを覚え」という原語のギリシア語を、「激しく感動し」と訳したり(口語訳聖書)、「強く心を打たれ」(リビング・バイブル)と訳している聖書があります。では、原語のギリシア語はどういう意味だろうか?と調べてみると、辞書では“鼻息荒く叱る。どなりつける。立腹する。憤激する”といった意味が書かれていました。辞書的には「憤りを覚える」という日本語訳が、いちばん正確なようです。けれども、「憤り」と訳さなかったのは、どうしてこの場面で“憤り”が起こるのだろうか?と、この箇所を訳した方々が不思議に思ったからではないかと思うのです。どうして主イエスは憤りを覚えたのでしょう?何に対して怒りを感じたのでしょうか?

 あれこれと思いめぐらしながら、ふと思い出したのが、大切な、愛する人を失った時に、人は“怒り”を感じることがある、ということでした。特に、亡くなった人が、事故や病気等で、まだ人生の途中で死んでしまったと感じられる場合に、どうして?という思いが、その答えがないために、怒りとなって現われることがあります。その怒りは、自分自身に向けられることもありますし、もっとも身近な人にぶつけられることもあります。牧師がぶつけられることもあるのです。

 改めてインターネットで、このことを調べてみましたら、あるブログに次のようなことが書かれていました。人が、大切な、愛する人を亡くした時、最初に感じるのはショックであり、一時的に感情が麻痺したような状態になると言います。その次に起こるのは悲しみです。大切な人を失った現実に気づき、喪失感(そうしつかん)を感じ、悲しみがどっと押し寄せ、感情がいちばん揺れ動く時です。そしてその時に、悲しみの現れの一つの形として“怒り”が起こることがあるということです。その怒りは、時に医療機関に向かい、時に葬儀社やお坊さんに向かい、時に周りの人々に向い、場合によっては亡くなった人に向けられ、更には神や仏、運命に向けられることもある、と書かれていました。

 マリアは、兄弟であるラザロを失いました。しかも、寿命として納得しているのではなく、病気のために人生の途中で失ったと感じたことでしょう。その悲しみが、怒りとなって現われました。そして、その怒りは主イエスに向けられました。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」

まるでラザロが死んだのは主イエスのせいであるかのように、マリアの悲しみは怒りとなり、恨み言となって主イエスにぶつけられたのです。そのように怒りを主イエスにぶつけ、マリアは悲しみのあまり泣きました。主イエスが、「心に憤りを覚え(た)」のは、その時です。

 主イエスにとっても、ラザロは、大切な、愛する人です。そのラザロが死んだ。知らせを聞いて、ショックを受けたはずです。けれども、現実感がなかったかも知れません。その後で、出かけて行って、まずマルタと対面した。主イエスはラザロの死を実感し、悲しみがご自分の心に湧き起こるのを感じたことでしょう。マルタもマリアと同じ言葉で(21節)、同じように、主イエスに怒りと恨みをぶつけています。けれども、その後の主イエスとのやり取りから、マルタの方が幾分、理性的で、感情をコントロールしているように思われます。だから、主イエスも、マルタに対しては、まだ興奮せず、悲しみを抑えて対応できたのではないでしょうか。

 ところが、マリアは、主イエスを見るなり、泣き崩れました。怒りを露(あらわ)にぶつけました。その姿に、主イエスも、最初にマルタに会った時以上にラザロの死を実感し、悲しみを感じ、心が揺れ動いたのでしょう。そして、その悲しみが主イエスにおいても“憤り”という形になって現れたのではないでしょうか。

 その憤りは、何に対して向けられたものだったのでしょうか?ラザロに病を与え、死をもたらした父なる神に対する憤りだったかも知れません。あるいは、ラザロの死に間に合わず、何もできなかったご自分に対する怒りであったかも知れません。

 

 「どこに葬ったのか」(34節)。悲しみと憤りを辛うじて抑えて、主イエスはお尋ねになりました。けれども、「主よ、来て、ご覧ください」(34節)と言う人々の言葉と、その悲しみに触れ、主イエスもまた「涙を流され」(35節)ました。悲しみの感情が素直にあふれたのです。「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」(36節)と人々が言うように、主イエスはラザロを深く愛しておられたでしょう。大切な、愛する人を失って、主イエスも悲しみ、涙を流しておられます。

 それと同様に、主イエスは、ラザロを愛しておられたように、マルタを、マリアを愛しておられました。主イエスの涙は、ご自分の悲しみであり、同時に、ラザロを失ったマルタ、マリアの悲しみに心を寄せ、共感して流す涙であると思います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)と聖書の中で言われている、その涙です。主イエスはマリアを愛しているがゆえに、マリアの悲しみに共感し、その心に寄せて涙を流されたのです。

 話は変わりますが、『現代社会の悲しみといやし』という本の中で、柴田千頭男さんという牧師であり、日本ルーテル神学大学の教授でもあった方が、〈牧会者 ~ 喜びと悲しみを共感する者〉というタイトルで、次のような文章を書いておられます。

 数年前、一人の教会員が夜10時半ごろ、電話をかけて来ました。「どうしたんですか」と聞きましたら、「先生、息子が死にました。交通事故で即死でした」。バイクで塀に激突いたしまして、首の骨を折って亡くなったんです。電話の向こうでお母さんが泣いているのがよく分かりました。私は、頭のなかが真っ白になって、いったいなにを言ったらいいのか分からなくなりました。‥‥しかし‥‥私が彼女と一緒に読んだ聖句は詩編の88編でした。

 詩編88編には、まったく救いようのない状況が書いてあります。本当に死者が起き上がるようなことがあるのですか。そんな言葉も出てくる詩編です。最後は、「いま私に親しいのは暗闇だけです」という言葉で終わっています。真暗闇の中に自分は座っている。なぜ親しい者が死んだのに神は恵みを注いでくださらなかったのか。これは神さまを訴えるような言葉です。「恵み」とか「喜び」という言葉はここにはまったくありません。でも私は、子どもを失ったお母さんといっしょにこれを何回も読みました。彼女は、これを泣きながら読んで、「先生、私のいまの気持ちはこのとおりです」とおっしゃいました。

 私はこの不慮の事故について、なぜとか、そういうことは一切説明しませんし、できませんでした。埼玉県のあるところで家庭集会をもっていて、必ずそのご婦人は出ていたのです。その集会に出るたびごとに、しばらく私はこの詩編をいっしょに読みました。しかしそのうち、なぜこういう詩編が聖書のなかにあるかということが、だんだんわかってきました。このような悩みをもっている人がこの世にいっぱいいるということです。そして、そのような悩みに神が耳を傾けてくださっている、神の存在がここにあるということです。‥‥神に向かって「なぜだ」と質問を投げかけている、その悩みのどん底、苦しみのどん底の、呪いのような言葉を受け止めて、悲しむだけ悲しみなさいと言っている神の存在を、そこにだんだん感じ始めました。

半年くらいたってから、はじめて婦人は私に、「先生、わかってまいりました」とおっしゃいました。神が来て、耳を傾けて聞いてくださっている、手を打ってくださろうとしているということがわかってきましたとおっしゃるのです。これは恵みでした。そして喜びに変わっていきました。‥‥(上掲書139~141頁)

 大切な、愛する息子さんを失ったこのご婦人は、聖書を通し、信仰によって、神さまがその悲しみに、耳を傾け、心を傾け、寄り添ってくださることを感じたのです。聖書を通して分かること、それは、主イエスが私たちと共に涙を流し、泣いてくださるということです。私たちの悲しみに共感し、寄り添ってくださるということです。そして、主イエスを通して、神が私たちの悲しみに耳を傾け、共にいてくださる存在であるということが分かって来るのです。聖書の御言葉によって、信仰生活を過ごす中で、理屈抜きに分かって来るのです。その信仰によって、私たちの悲しみは癒(いや)されて行き、悲しみの中にも恵みを感じ、喜びさえも感じるように変えられていくのです。

  私たちの人生の歩みの中には、少なからず悲しみがあります。苦しみ悩みがあります。けれども、そのどん底に神は来てくださり、耳を傾け、涙を流し、寄り添い、共にいてくださいます。そこに神の愛があります。そして、主イエスを信じ、神を信じる者の救いがあります。

 

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