坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年3月10日 主日礼拝説教「もし信じるなら」

聖書  ヨハネによる福音書11章38~44節
説教者 山岡 創牧師

11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

          「もし信じるなら」 

 主イエスは、ラザロの墓に来られました。その墓は洞穴で、その奥にラザロの遺体が布でまかれて納められ、入口は石でふさがれていました。「その石を取りのけなさい」(39節)と主イエスは言われました。すると、ラザロの姉妹であったマルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)と言って止めようとします。すると、その言葉をたしなめるかのように、主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)と言われました。

「もし信じるなら」‥‥この言葉の前で、私は立ち止まりました。イエス様は“何を”信じるように求めておられるのだろうか?私たちは何を信じたらよいのでしょうか?

マルタが言ったことは常識的で、当然とも言えることです。ラザロは死んで、もう4日もたっている。その遺体は腐敗し始めている。だから、石を取りのけないで、そのままふさいでおこう。それは、ラザロが生き返るとは思っていない人の言葉であり、行動です。

けれども、主イエスは、そのマリアをたしなめて、「もし信じるなら」と言われました。そして、死んだラザロを生き返らせて見せたのです。

そういう意味では、信じるとは、人間の常識や考え方の範囲内で留まっている生き方の殻を破って、その外側にあるもの、それ以上のもの、つまり神の世界を信じるということだと言うことができるでしょう。

 それならば信じるとは、死んだ人間が生き返ると、神は死んだ人間を生き返らせることができると信じることでしょうか。確かに、神さまは何でもできる(全能)と信じることは、信仰の根本です。神さまは、天地とそこに生きるすべてのものをお造りになったのだから、死んだ人にも再び命を与えて生き返らせることができると、神の力を信じることは、信仰の前提です。主イエスは、神さまから遣(のこ)わされた者として、ラザロを生き返らせることで、神の全能の力をお示しになったのです。

 けれども、神さまを信じれば、死んだ者も生き返ると信じることを、主イエスはマルタに、そして私たちに求めておられるのでしょうか。そうではないと思います。神さまを信じれば、私たちが生き返ってほしいと願っている愛する人を、神さまに生き返らせていただくことができる‥‥‥信仰とは、そんなふうに私たちの願いどおりになる、都合の良いものではありません。失った愛する人が生き返って、もう一度会えたら、という願いは、私たちの究極の願望かも知れません。けれども、信仰とは私たちの願望を都合よく叶えるものではないのです。

 では、信じるとは何を信じることでしょうか?主イエスは、「もし信じるなら」という御(み)言葉で、私たちに何を信じるようにと求めておられるのでしょうか?

 

 少し話を戻しますが、主イエスがベタニアの村に着いた時、ラザロは既に亡くなっていて、葬儀が行われていました。主イエスが来られたと聞いて、マルタは迎えに出ました。そして、主イエスが間に合わなかったことに恨(うら)み事を言います。そんなマルタに対して、主イエスは、11章25節でこう言われました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、けっして死なない。このことを信じるか」(25節)。

 ですから、「もし信じるなら」と言って、主イエスがマルタに求めたのは、この御言葉であり、その内容です。主イエスが「復活であり、命である」ことを信じるのです。

 とは言え、どのように信じたら良いのか、よく分からない、分かりにくい言葉だなぁ、と感じます。「死んでも生きる」というのは、死んだ人が、主イエスを信じたら生き返る、ということだとは思えません。また、ラザロは生き返らせていただいたのだとしても、その後、寿命を迎えて死んだでしょうから、「‥決して死なない」ということが、地上で死なずに永遠に生きることだとは考えられません。ならば、主イエスが「復活であり、命である」ことを信じるとは、どのように信じ、何を手にすることでしょうか?

 少し話が変わりますが、改めて“信じる”という営み、それ自体を考えてみました。信じるとは、信じて生きる、ということでしょう。生きることなしに、頭だけで信じることはあり得ません。そして、信じて生きるとは、主イエスに従って生きるということでしょう。主イエスの御言葉をよく聞いて生きることでしょう。主イエスに倣(なら)って、主イエスのように生きることでしょう。主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われる。主イエスは、復活そのものとして、命そのものとして生きている。よく分からない。けれども、その言葉を受け止めて生きてみる。その言葉を自分の中に取り入れて、思い巡らしながら生きてみる。そのようにして生きているうちに、自分自身も復活そのものとして、命そのものとして生きているということが分かるようになって来る。理屈抜きに、“あぁ、復活って、こういうことなんだ。命を生きるって、こういうことなんだ”と感じられるようになって来る。それが、信じるという営みだと思うのです。

 

 そんなことを思い巡らしながら、ふと思い起こしたのが、星野富弘さんの〈いのち〉という題の詩でした。

  いのちがいちばん大切だと思っていたころ

  生きるのが苦しかった

  いのちより大切なものがあると知った日

  生きているのが嬉しかった       (『鈴の鳴る道』80頁)

 ご存じの方も多いと思いますが、星野富弘さんは、群馬県で高校の体育の教師として働いていました。けれども、24歳の時でしたか、授業中に器械体操で空中回転の模範演技をして、その着地に失敗し、首の骨を折って、首から下が麻痺してしまい全く動かなくなってしまいました。病院のベッドで絶望の日々を送っていた星野さんでしたが、そこでクリスチャンの看護師と出会い、牧師と出会い、聖書を読むことを勧(すす)められます。そして、聖書の御言葉によって自分を見直し、自分の生き方を考え、自分の命と向き合うように変えられていきます。そのような歩みの中で、主イエスを信じ、神さまを信じて洗礼を受け、口に筆をくわえて描く草花の絵と詩を通して、神さまの愛を伝えるようになります。それは言い換えればきっと、命そのものを生きて伝えるということだと思うのです。

 そんな星野富弘さんが、いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった、とうたっています。それは、今日の主イエスの言葉で言えば、復活そのものとして、命そのものとして生きるということが分かったということ、その嬉しさが自分の腹にストンと落ちたということだと思うのです。

 いのちより大切なもの、って何でしょうか?そこで、また思い出したのが、カトリックの司祭である井上洋治さんの話でした。井上先生はある時、“人生で一番大切なもの”というテーマで原稿を書いてほしいと、ある出版社から頼まれました。そこで先生はあれこれとお考えになったわけですが、そんな時、一通の手紙が舞い込みました。見ず知らずの若い女性からの手紙で、交通事故を起こしてしまい、顔に大やけどを負った。それ以来、苦しみの連続で、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいというような内容の手紙でした。その手紙を読んだ時、井上先生はハッして、こう思ったそうです。

  私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折(ざせつ)してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。

(『人はなぜ生きるか』9頁)

 自分を受け入れることができる心、それを星野富弘さんは、主イエスを信じて手に入れたのだと思います。命がいちばん大切だと思っていたら、価値ある大切なものを失って、色あせ挫折した自分を受け入れることはできません。生きることが苦しいのです。苦しみの連続なのです。

 けれども、星野富弘さんは、生きているのが嬉しかったという喜びを手に入れました。首の骨を折り、首から下が麻痺してしまった自分を受け入れる心を与えられました。それは、命の“何”に気づいたからでしょうか?

 それは、命が、神の愛に包まれているという命の本来に気づいたからではないでしょうか。自分の命は、健康や財産や友情や家庭といった命の外側の形に関わらず、そういう命のオプションには関係なく、命そのものは、神さまに造られ、神さまに愛され、神さまに生かされてあるものだということに気づいたからではないでしょうか。自分の手の中にあって、すべて自分の力で何とかしなければならないものではなく、神さまの愛を信頼して“こんな私ですが、神さま、よろしくお願いします”とお任せしていいのだ、ということに気づいたからではないでしょうか。そういう命に、星野富弘さんは、聖書の言葉を通して、また周りの人たちの愛を通して気づかれたのでしょう。

 そのような信仰の心境を、星野さんは〈にせアカシア〉という詩にうたっています。

  何のために生きているのだろう

  何を喜びとしたらよいのだろう

  これからどうなるのだろう

  その時 私の横に あなたが一枝の花を置いてくれた

  力を抜いて 重みのままに咲いている 美しい花だった(『鈴の鳴る道』66頁)

自分を大きな手で包み、支えている神さまの愛を信頼して、力を抜き、人生の重みのままに、その重みを神さまにお任せして生きる。主イエスとは、そのように生きておられた方だと思うのです。そして、神のその生き方を、「わたしは復活であり、命である」という言葉で表されたのではないでしょうか。だから、主イエスが「復活であり、命である」と信じるということは、主イエスの御言葉を信じ、主イエスに倣い、私たちも、“私”を愛し、生かしてくださる方に“よろしく”とお任せして生きることです。そういう命の本来がだんだんと分かり、生きていることが嬉しいと感じられるようになっていくことです。

 その時、私たちは「神の栄光」(40節)を見ます。生きるのが苦しいと感じている人を、生きているのが嬉しいと思えるように変える神の力、神の愛、神の栄光を見るのです。「もし信じるなら」‥‥、私たちも主イエスを信じて、命の道を、復活の道を進みましょう。

 

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