坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年3月24日 受難節第3主日礼拝説教「無意味なものはない」

聖書  ヨハネによる福音書12章1~8節
説教者 山岡 創牧師

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

        「無意味なものはない」  

 昨日、ひょっこり一人の男性が教会を訪れました。教会の掃除が終わって、奉仕をされた人たちとお茶を飲んでおしゃべりをしている時でした。話を聞いてみると、その方は、10年ほど前に大事故に遭って、普通だったら死んでいるところを、奇跡的に、足の複雑骨折だけで助かった、というのです。その後、足にも、脳にも後遺症が残ったけれど、歩けるし、話もできるし、少しずつ回復してきた。そして先日、車にも乗ってよいと医者から許可が下りた。それで近くのバイク・ショップに来たら、ここに教会を見つけて、ふらりと立ち寄ったのだ、と言うのです。

 数年前にキリスト教と出会った。宣教師さんと話をして、先の事故のことを話したら、それはイエス・キリストの父である神さまが、あなたを守ってくださったのでしょう、と言われた。その後、教会に通い続けるうちに、本当にそうだと信じられるようになってきた。神さまにとても感謝している。その感謝を表したくて、ここに寄らせてもらいました。そう言って、その男性は、礼拝堂で3分ほどお祈りをして帰って行きました。

 私は、今日の説教を準備する時に、その方のことを思い出しまして、私は、知らないところへ行って、そこで教会を見つけたら、神さまに感謝を献げようなんて思うだろうか?それほどまでに神さまに感謝を献げようと思ったことがあっただろうか?と思いました。もちろん、人と自分の信仰の行為を比べる必要などないのですが、感謝というものは、その思いが大きければ大きいほど、自分の内からあふれ出て、外に現れるものだと改めて感じました。あの男性の姿が、マリアと重なりました。

 

 マリアは、主イエスの足に、「純粋で非常に高価なナルドの香油」(3節)を塗り、髪の毛でぬぐいました。ユダヤには、旅をして家に訪れた客の足を洗う習慣がありました。姉のマルタが既に主イエスの足を洗っていたでしょう。その足に、マリアは更にナルドの香油を塗って、もてなしたのです。その量1リトラというのは約326グラム、その価値は300デナリオン、つまり当時のユダヤでは300日分の労働賃金に相当するものでした。

 それほどの香油を主イエスの足に塗ったのは、マリアの内からあふれ出る、主イエスに対する感謝にほかなりません。直前の11章を読むと、マリアの兄弟であるラザロが病のために死んでしまった。そのラザロを主イエスが生き返らせたことが描かれています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11章32節)と泣きながら恨(うら)みごとを言い、主イエスに怒りをぶつけたマリアでしたが、ラザロを生き返らせていただいて、その思いは感謝へと変わりました。

 マリアはその感謝の気持を表わす機会がありませんでした。主イエスが、祭司長やファリサイ派の人々との対立から命を狙われて、すぐにベタニアを離れ、僻地(へきち)の町に逃れたからです。けれども、その時からマリアは、この感謝をどのように表そうかと考え続けていたに違いありません。そして、エルサレムで行われる過越祭が近づいて、その祭りに参加するために、主イエスが再びベタニアにおいでになり、マリアの家に立ち寄られた際に、マリアの感謝は、主イエスの足にナルドの香油を塗るという行為となって表されたのです。

 私たちの信仰生活における行為の一つひとつは、例えば今日、こうして礼拝に出席していることも、祈りも、献金も、奉仕も、また隣人を愛することも、信仰のトレーニングであると同時に、主イエスに対する感謝の表れだと言ってよいでしょう。私たちは、本当にお世話になったと感じている人には、何らかの形でお礼をしたい、感謝を表したいと心から思うでありましょう。信仰も同じことです。主イエスを通して神の愛をいただき、救われた。神さまに本当にお世話になった。そう思うから、私たちは信仰生活を営みます。神さまに感謝してお応えするのです。マリアの行為も、それ以外の何ものでもありません。

 

 けれども、マリアの感謝の行為を非難する者がいました。弟子の一人であるイスカリオテのユダです。

「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)。ユダはそう言ってマリアを非難しました。確かに、ユダヤ人が奉じている神の掟の中には、貧しい人々に施し、その生活を支えよ、という教えがありますし、主イエスもそのことを大切にしておられたでしょう。それなのに、主イエスの足に塗るためだけに、すべての香油を使ってしまうとは、何ともったいない。なんと無駄なことを!‥‥‥ユダはそんなふうに思ったのかも知れません。

 ユダの非難はもっともです。正論です。けれども、ユダは自分自身が、貧しい人々に心をかけていたのではないようです。隣人を自分のように愛するという、主イエスが大切にされた教えに従おうと思っていたわけではないようです。

「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(6節)と書かれています。ユダは、主イエスの弟子団の会計係だったようです。けれども、その財政は決して豊かではなかったでしょうし、彼はいつもやりくりに苦労していたと思われます。だから、マリアが惜しげもなく高価な香油を主イエスの足に塗るのを見た時、ユダは、そんな余裕があるなら、貧しい我ら一行のために献げてくれよ、と腹立たしくなったのかも知れません。あるいは、主イエスに高価な香油を献げることができるマリアを、自分と比べてねたましく思ったのかも知れません。

ユダが言っていることはもっともなのです。正しいのです。けれども、その言葉が虚しく聞こえてしまうのは、その言葉に“自分”がこもっていないからです。他人事だからです。自分自身がその言葉に生きていないからです。その言葉を生きる当事者になっていないからです。

聖書を読んだり、御(み)言葉の説教を聞いたりする時、“これをあの人に聞かせてやりたい”と思ったり、“社会がこうであれば”と社会批判に振り向けたりすることがないでしょうか。その気持が分からないわけではありませんが、主イエスの言葉を聞くべきは、まず“自分”なのです。主イエスは、この“私”に何を言おうとしているのか?主イエスの言葉を、“私”はどのように自分の生活や人間関係に具体化すれば良いのか?それを考え、実践することこそ信仰です。御言葉に自分を込めて、当事者として御言葉を生きるということです。それなくして、他人や社会に御言葉を適用しようとすれば、それは虚しくなるのです。

もしも私たちが、聖書の御言葉に基づいて、人を諭(さと)し、社会に当てはめることができるとしたら、それは、自分を棚に上げず、まず自分自身を御言葉によって諭し、当てはめている時だけです。御言葉によって、自分もこの人と同じものを抱えた人間だ、自分もこの社会の一員だと思えた時だけです。その時、その言葉は、単なる批判ではなく、冷たい正論でもなく、愛のある言葉となるのです。

 

 主イエスの言葉には愛があります。人を、神さまの目線で見て生かそうとする愛が感じられます。もしユダがマリアを非難した時、主イエスが何も言わなかったら、ユダの正論がその場を支配したかも知れません。マリアの行為は、何ともったいない、無駄な、無意味な行為と思われたかも知れません。

 けれども、主イエスは、マリアの行為を、愛の視点で受け止めてくださいました。

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬(ほおむ)りの日のために、それを取っておいたのだから」(7節)。

 主イエスはこの後、祭司長やファリサイ派の人々に捕らえられ、十字架刑で処刑されることになります。その死を予想し、葬りのために、マリアが香油を取っておいて、使ったとは思われません。マリアは、自分の感謝の思いから、そうしたのでしょう。けれども、その行為が非難され、無駄な、無意味なことと決めつけられそうになった時、主イエスは、神の愛の視点から、神さまのご計画という視点から、その行為に豊かな意味を付けてくださったのです。

 話は変わりますが、毎月第3火曜に行われるやさしい聖書入門では、『忘れ物のぬくもり』という本を読んで学んでいます。その中の〈白いジャケット〉というタイトルの文章の中で、著者である塩谷直也先生は、次のようなことを書いています。

 中学校1年生であったわたしは、プラモデル作りに熱中する子どもだった。新聞配達やお年玉で貯め込んだお金のほとんどをプラモデルの購入にあてた。‥‥‥やがて接着剤や塗料の臭いをシンナーのそれと勘違いした父親が、ある日、子ども部屋に侵入、わたしの机の中を確認、仰天する。すぐさまわたしは呼び出され、こっぴどく叱られた。部屋で静かに勉強していると思ったらなんたることだ、と。‥‥‥わたしは一言も言い返せず、ただ下を向くしかなかった。そのときだった。居合わせた母が、ポツリと父親に言った。「手が器用になるから、いいじゃない」

 あまりにとぼけた言葉に、父もわたしも言葉を失った。けれど、わたしはこの母親の言葉で救われた。どうにか自分の居場所を得た、と言っていい。もしもあのとき、母までわたしを責めていたら‥‥‥放火まではしなくとも、何かしでかしたかもしれない。

(前掲書216頁)

 もちろん、父親に愛が全くないとは思いません。けれども、母親の、自分を丸ごと包み込むような言葉によって、塩谷先生は救われたのです。

 主イエスの言葉を聞いた時、ユダは“何をとぼけたことを”と思ったかも知れません。けれども、一見とぼけているかのような、ズレているかのような主イエスの言葉が、マリアを救ったのです。この世の価値観からすれば、無駄だ、無意味だと烙印(らくいん)を押されかねなかったマリアの行為は、主イエスの愛によって肯定され、生きた意味を与えられたのです。

 神さまの愛の視線で見るならば、愛のご計画で見るならば、私たちの人生において、その言葉、その行為はきっと、無駄で無意味なものは一つもないのでしょう。つまらぬ雑用も、徒労に終わった努力も、空しく過ぎた時間も、無視された厚意も、用をなさなかった準備も、報いられなかった忍耐も、きっと意味あるものになる。病気も、不幸も、苦悩も、悲しみもきっと、意味あるものとなる。罪さえも意味あるものに神さまは変えてくださるのです。将来へとつなげてくださるのです。

 私たちの人生に無駄なもの、無意味なことはない。信じて進みましょう。

 

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