坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年6月23日 礼拝説教 「弟子のクオリティー」

聖書 ヨハネによる福音書13章12~20節
説教者 山岡創牧師

13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
13:20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

   「弟子のクオリティー」
       ~ 主イエスのレプリカ ~
 私たちの教会のロビーに、レオナルド・ダ・ビンチの絵画〈最後の晩餐〉が飾られています。もちろん、オリジナルを模倣して(まねて)描いたレプリカです。本物は、イタリアのミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に壁画として描かれたものだそうです。
 ちなみに皆さん、〈最後の晩餐〉のオリジナルのサイズはどのぐらいあるか、ご存じですか?・・・なんと!縦4.5m、横8.8mもあるのだそうです。私も、今回調べてみて、初めて知りました。もっと小さいと思っていましたが、そんなに大きな絵だったのだということに驚きました。
 〈最後の晩餐〉の絵は、芸術や小説等に大きな影響を与えました。割りと最近では、『ダ・ビンチ・コード』という推理小説が書かれ、映画にもなりました。もちろん、どれだけの人が、このオリジナルの絵を模倣して、レプリカを描いたか、分かりません。

 最後の晩餐と呼ばれる夕食が、ユダヤ教の過越(すぎこし)の祭りの時、主イエスが捕らえられる前夜に行われました。その席で、主イエスは、弟子たち一人ひとりの足を洗いました。そして、その行為は、あなたがたのための「模範」だと主イエスは言われました。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14~15節)。
 ローマ帝国が支配する当時の社会において、足を洗うということは奴隷の仕事でした。あるいは、集団の中では、いちばん下の人がすべきことだったでしょう。それを、主であり、師であるイエスがなさったのです。それは、へりくだって、すべての人の下になり、すべての人に仕えるような“愛の生き方”をしてほしいと、主イエスが弟子たちに望んでおられたからです。
 ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)にはありませんが、他の福音書に、例えばマルコによる福音書10章35節以下に、主イエスが弟子たちに、すべての人に仕える愛の生き方を諭(さと)している場面があります。弟子のヤコブとヨハネは主イエスに、あなたが王になった時、自分たちに、王に次ぐ地位をください、と願います。それを聞いた他の弟子たちは、自分たちを出し抜こうとしていると二人に腹を立てます。その様子を見て、主イエスは、弟子たちを呼び集めて、次のように諭しました。
「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10章42~45節)。
 主イエスを王に、という機運がユダヤ人たちの間で高まるにつれ、弟子たちは、地位、権力、出世を願うようになりました。一言で言えば、偉くなりたい、という願いです。そんな弟子たちに、主イエスは、私があなたがたに教えたいのは、そんなことではない。僕の道を教えたいのだ。皆の下になり、皆に仕える愛の生き方を伝えたいのだ。そう言っているのです。そして、そのように言うのは、ご自分が「仕えられるためではなく仕えるために」来たからです。人に仕えるために「自分の命を献げる」からです。
 そういう僕の道を、愛の生き方を、具体的に示し、教えるために、主イエスは弟子たちの足を洗いました。生きた「模範」を示されました。そして、主イエスの模範は、究極的には、十字架の死によって示されるのです。友のために自分の命を捨て、多くの人を罪から解放する身代金としてご自分の命を献げる十字架の死によって表されます。
 主イエスは、弟子たちの足を洗いました。それは、弟子たちが、へりくだって僕のように互いに足を洗い合うことを、互いに愛し合うことを願って、その模範を示されたのです。そのように生きることが、この世において、地位や権力や財産よりも、はるかに尊いこと、大切なこと、幸いなことだということを知ってほしかったのです。
 そして、それを知った弟子たちが、そのように生きることの喜びを、平和を、幸せを知ってほしかったからです。へりくだって僕のようになり、人を愛する道には、労苦が伴うでしょう。忍耐が必要でしょう。自分ばかりが損をして、と思うこともあるかも知れません。けれども、その労苦に、忍耐に、損にまさる喜びを、平和を、幸せを、私たちに味わってほしい、味わわせたいと主イエスは願っておられるのです。

 主イエスは、愛の模範、僕の道の模範を示されました。その模範を弟子たちが倣(なら)う上で、主イエスが付け加えている大切なひと言があります。
「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣(つか)わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(16~17節)。
 主イエスは、大事なことを言う時に、「はっきり言っておく」と最初に言います。だから、このひと言は大事なことなのです。けれども、どうして大事なのか、何を言いたいのか、最初はその意味がよく分かりませんでした。確かに、主人は僕よりも上、弟子は師匠にまさりはしないよなぁ‥‥だけど、修業を積んでいくと、弟子が師匠を越えたりすることもあるかも知れない‥‥これ、改めていう必要あるのかなぁ?‥‥最初は、何が言いたいのだろうと、そんなことを思い巡らしていました。
 けれども、やがてハッと思い浮かんだことがありました。それは、弟子たちに、そして現代の弟子であり、クリスチャンである私たちに、余計なプレッシャーを与えないためではないか、と気づいたのです。
 主イエスに愛された者は、その愛に満たされ、感謝して、人を愛するようになります。それが信仰の道筋です。けれども、私たちが人を愛する時に、主イエスの模範のように、主イエスと同じように愛さなければならない、と考えたらどうでしょうか?それは、大きなプレッシャーになるのではないでしょうか。そして、そんなことは無理だ、と最初からあきらめ、開き直るか、それとも、できない自分に落ち込み、こんな自分は主イエスに愛されない、神さまに救われないと自分を否定するようになるかも知れません。
 そんなことを考えないでいいように、主イエスは「僕は主人にまさらず」と言われたのでしょう。弟子は師匠に劣っていて当然、同じようにできなくていい、自分のことをだめだなんて思わなくていい。ただ、私の背中を見つめて歩けばいい。私の後ろについて、はるかに後方であっても、私の道を歩けばいい。道から外れても、つまずいても、また戻ればいい。この道を歩こうとする気持があればいい。そんなふうに、主イエスは、大きな心で、私たちを見ていてくださっているのだと思うのです。この主イエスの思いを知って、互いに足を洗い合う者、愛し合う者は幸いなのです。

 レオナルド・ダ・ビンチの〈最後の晩餐〉のレプリカは、オリジナルに比べたら、はるかに劣ったものでしょう。当然のことです。それでいいのです。それでも、私たちは、レプリカからダ・ビンチの〈最後の晩餐〉の趣(おもむき)を味わうことができます。模倣したものが劣っているとしても、必ず伝わる何かがあるのです。
 けれども、利益のために大量生産されたものはともかくとして、ダ・ビンチの〈最後の晩餐〉に感動し、それを模倣して自分も描いてみたいと思った人が描いたレプリカには、その人の魂がこもるのではないでしょうか。生きた絵になるのではないでしょうか。
 話は変わりますが、今、NHKの連続テレビ小説で〈なつぞら〉というドラマが放映されています。主人公、広瀬すずが演じる奥原なつは、戦後、戦死した父親の戦友によって、北海道の地で大切に育てられます。そして、高校を卒業後、子どもの頃にアメリカのアニメーション映画を初めて見た時の感動が動機となって、上京してアニメーターを目指す、という筋書きです。
 上京したなつは、つてがあって、日本初のアニメーション制作会社に入社し、仕上課という部署に配属されます。アニメーターが描いた原画が透明のセルに写し取られ、その1枚1枚に色を塗って仕上げる仕事です。
仕上課には色塗りの他にもう一つ、トレースという仕事がありました。原画の線を崩さずにセルに写し取る作業です。〈白蛇姫(はくじゃひめ)〉というアニメーション映画が完成して、次の製作までに仕事に余裕ができた時、仕上課の主任が、色塗りをしていた社員たちにトレースを覚えさせるために、全員を集め、試しにやってみたい人を募(つの)ります。その場で、なつは手を挙げ、一つの絵を写し取るトレースを始めます。それは、こんな絵です(サンプルを見せる)。1枚を描き上げたなつに、主任は、もう1枚、もう1枚と言って、10枚のトレースをさせました。そして、その10枚を重ねて、元の原画と合わさせてみます。すると、原画とトレースしたものの線が、またトレースしたセル画同士の線が微妙にズレていることが分かります。なつは、それを見て、ズレたらだめだと感じます。ところが、主任はその場にいるみんなに、こう言います。
 どんなにうまく描いても完璧に重なることはないんです。けど、これが絵に命を与えることになります。
 アニメーション動画は、1秒に12コマのセル画でできている。止まっている時でも、その微妙なズレによって、絵が動いているように見える、生きているように見えるのだ、と主任は教えました。
 主イエスを模範として生きる。それは、主イエスの生き方をトレースすることだ、と言ってよいでしょう。どんなに同じようにトレースしようとしても、ズレが生じます。劣化します。完璧に重なることはありません。けれども、それでよいのです。主イエスの愛と同じクオリティーでなくてよいのです。十字架の上で、友のために、すべての人を罪から解放するために、命をささげた主イエスと同じことなんて、だれにもできないのです。いや、それどころか、時には愛せないこと、愛することに失敗すること、かえって傷つけてしまうようなことさえあります。でも、それでいい。
 大切なことは、主イエスの愛という模範をトレースしようという思いです。主イエスに愛されて、感謝して、祈って、時には悔い改めながら、自分も主イエスに愛されたように、だれかを愛そうとトレースする信仰の思いです。その思いを持って生きること、それが私たちの信仰生活です。その思いがあれば、私たちの信仰生活という絵に、きっと命が吹き込まれます。私たちなりの魂が込められます。
 クリスチャンとは言わば、主イエス・キリストの“愛のレプリカ”です。愛をトレースする模倣品です。主人にまさらず、しかし主人の後ろに従って行く。このレプリカの志を持って、一人ひとりが遣(つか)わされた場所で、置かれた人間関係の中で、身近な家族を愛し、友人を愛し、同僚を愛し、また世界の人々を愛し、愛をトレースして歩んでいきましょう。


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