坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年6月30日 主日礼拝説教 「裏切りと愛」

聖書 ヨハネによる福音書13章21~30節
説教者 山岡創牧師

◆裏切りの予告
13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
13:22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
13:24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
13:28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

 

   「裏切りと愛」
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21節)。
 最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちにこう言われました。断言されました。素振りでは分からなかったかも知れませんが、主イエスは「心を騒がせ」ていた、とあります。そりゃ、自分が信頼していた弟子の中に、仲間の中に裏切り者がいると知れれば、冷静でいられる人なんていません。心が騒ぐでしょう。
 けれども、この一言は、主イエスにとって、それ以上に大きな意味があったのだと思います。それは言わば、山の頂上にあった“運命”という名のボールを坂道へと押し出したようなものです。ボールは坂道を、十字架刑へと向かって転がり落ちていく。もう止めることはできない。後戻りすることもできない。いや、あのひと言は勘違いでした、私の間違いでした、では済まない。主イエスは覚悟して、運命のボールを押したのです。
別の言い方をすれば、それは最終ステージの扉を開ける、ということでした。扉が開いて、ステージに光が入って、ライブが始まったようなものです。その「栄光」(31節)の光の中に立ったら、“あっ、ちょっと待ってください”と言ってステージを降りることはできない。観客が期待して見ています。主イエスにとって、このステージの観客とはだれでしょう?それは、父なる神さまお一人です。
そして父なる神は、このステージの観客であると同時に、プロデューサーです。父なる神が、“十字架への道”という、このステージの企画をしたのです。
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」
 このひと言で、主イエスは、十字架への道という、後戻りのできない最終ステージを始められたのです。十字架へと続く坂道へと踏み出されたのです。

 けれども、主役がステージに上がったのに、付き人たちの方が“えっ?えっ?、何が始まるの?”と戸惑っている感じです。主イエスがこう言われた時、弟子たちは、「だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」(22節)と書かれています。“えっ、いったい何の話?”といった感じです。弟子たちが察して、その中の一人に視線を集中するのではなく、お互いに顔を見合わせたということは、裏切るような素振りはだれにも感じられなかった、ということです。だから、主イエスがイスカリオテのユダを送り出した時も、弟子たちは、ユダを裏切り者だとは思いませんでしたし、何が起こっているのかも分からなかったのです。
 それもそのはずです。ユダヤ民族のボルテージが最高潮に達する過越の祭りのさ中、エルサレムに、“王様、万歳”と大歓声を浴びながら、主イエスは迎えられたのです。いよいよイエス様がイスラエルの王になる。そうしたら、自分たちはそれに次ぐ地位を、権力を手に入れることができる。そう勘違いしている弟子たちが、このタイミングで裏切るようなマネをするはずがないのです。
 ただ一人、イスカリオテのユダだけが、目先のことが見えたのかも知れない。民衆が盛り上がり、弟子たちが有頂天になって勘違いしている時に、その裏で、議員やファリサイ派の人々が主イエスを陥れようと画策していることを、主イエスを除けば、イスカリオテのユダだけが察していたのかも知れません。主イエスが処刑されれば、自分たちもそれ相応の処分を受けることになるだろう。だから、ユダは心の中で、どうするべきか葛藤し、迷っていたのではないでしょうか。

 それにしても、自分を裏切る者がだれなのか分かっているのに、どうして主イエスは、しかるべき処分をしないのでしょうか。どうして「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27節)と言って、ユダを送り出すのでしょうか。例えば、それはイスカリオテのユダだと名指しして、弟子たちと一緒にユダを拘束するといったこともできたはずです。極端なことを言えば、裏切り者として処分することもできたはずです。大抵の集団グループなら、そうしているでしょう。弟子たちも、そうするのが当然と納得したに違いありません。
 けれども、ご自分の最期を予感しながら、主イエスが弟子たちに遺して逝きたかったものは、そんな一般的な、人間的な、この世の価値観や常識ではないのです。損得の計算ではないのです。そういう価値観や常識や計算を越えた“愛”を、主イエスは弟子たちの心に遺して逝きたいのです。
 そのために、主イエスは弟子たち一人ひとりの足を洗いました。本来、奴隷か、いちばん下の者がすべき奉仕を、主であり、師である主イエスがなさったのです。そして、その行為を、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(15節)と言われました。それは、偉くなって驕り高ぶるのではなく、謙遜になって、相手に仕える愛の尊さを、身をもって示すためでした。その究極の模範が、十字架に架かり、友(弟子)のために命を捨て、すべての人を罪から解放するために自分の命を身代金として献げる行為でした。
 イスカリオテのユダをどうするか、そのこともまた、「模範を示したのである」と言えることでなければなりません。それは、弟子たちにとって、足を洗われること以上に、大きな模範になることです。今は訳が分からなくても、後になって気づけば、それは神の深い愛を表わす事例となり、弟子たちが倣うべき模範となり、信仰の土台になるに違いないのです。
 もし、ここで主イエスがイスカリオテのユダを裏切り者として処分していたら、弟子たちは、その場ではともかくとしても、後でどう感じたでしょうか?“イエス様は、互いに足を洗い合うように。へりくだってお互いに仕え、愛し合うように、教えられた。でも、そう言いながらユダのことは裏切り者として処分されたのはどうなんだろう?あれは普通の価値観で、へりくだって、いちばん下になって愛することとは、ちょっと違うのではないだろうか?イエス様、教えていることとやっていることが違うのではないだろうか?結局イエス様も、そんな愛で人を愛すること、ユダを愛することはできなかったのだ”。後で、弟子たちに、そのように思われたに違いありません。それでは、愛の模範になりません。
 けれども、主イエスはもちろん、ユダにそのようにはなさらず、へりくだって、ユダの僕になり、ユダを愛されました。自分を裏切る者でさえも、憎まず、赦し、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と、その人がしようとしていることを自由にさせ、見守る。そのようにユダのすべてを受け入れられました。
 だから、直前の19節にあるように、「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と主イエスが言われたことが、後で弟子たちの間で起こったです。「わたしはある」という、よく分からない表現は、一言で言えば主イエスが、ご自分のことを“神”であると、神と一体であると主張する時に言われる言葉です。つまり、弟子たちは、後になって、事が起こった時、ユダが裏切った時、それが引き金となって主イエスが十字架に架けられた時、三日目に復活された時、主イエスは“神”であると信じられるようになったのです。裏切り者でさえも、罪人でさえも、憎まず、赦し、自由にさせ、見守る愛を、すべてを受け入れる神の愛を示された主イエスを、神だと、神と等しいお方だと信じられるようになったのです。

 主イエスは、ご自分を裏切るイスカリオテのユダを受け入れ、愛によって送り出しました。見逃してはならないことがあります。主イエスが、パン切れを浸してユダに渡していることです。ヨハネによる福音書には書かれていませんが、これは、主イエスの聖餐に違いありません。他の福音書で、「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」「わたしを記念して、このように行いなさい」と言われ、後の教会の聖餐式となったものです。主イエスは、ユダに、ご自分の命と愛を渡して、送り出したのです。
 話は変わりますが、アメリカの絵本作家で、シルヴァスタインという人がいます。この人の作品に『大きな木』という代表作があります。原作では『The Giving Tree』、“与える木”という題です。
あるところに、1本のりんごの木と、少年がいました。少年と木はとても仲良し。お互いの事が大好きで、少年は木に登り、りんごを食べ、疲れたら木陰で休みました。木はとても嬉しい気持でした。しかし時は流れ、少年は成長します。木はひとりぼっちの時を過ごす事が多くなりました。
ある日、成長した少年が木のもとへやって来ました。嬉しくて仕方のない木に向かって少年は、「ぼくはもう大きいんだよ、買い物がしたいから、お金が欲しいんだ」と木にねだります。木は、「わたしのリンゴを町で売ったらお金ができて、楽しくやれるよ」と告げます。少年は、木にあるりんごを全て持って行ってしまいました。それでも木はとても幸せでした。
しかし木はまた寂しい時間を過ごします。そして、月日が流れたある日、大人になった少年は「ぼくに家をちょうだい」と言って木を訪ねます。木は少年のことが大好きなので「わたしの枝を切って家を作るといい」と言います。少年は、ありったけの枝を持って行きました。木はそれで嬉しかったのです。
ある日、さらに歳を重ねた少年は「遠くに運んでくれる船をちょうだい」と言って木を訪ねます。木は少年のことが大好きなので自分の幹を切って船を作るように言います。少年は、幹を切り倒し持って行きました。木はそれで嬉しかったのです。
 やがて老人になってしまった少年がやって来たとき、木にはもう何もありませんでした。ごめんなさい、とささやく木に、少年は、「もう何もいらない、ただゆっくり座れる場所があればいい。とても疲れた」と告げました。なら、と木は、切り株だけになった体をしゃんと伸ばして言いました。「私に座りなさい。切り株は座るのにちょうどいいから」少年はそこに座り、木はそれで嬉しく、とても幸せでした。
 木が少年に注ぐ愛情はまさに、この世の価値観や常識や、損得の計算を越えています。それは、人間の愛ではなく、神の愛を表しているのです。そして、この木が少年にすべてを与えて嬉しかったように、主イエスも、イスカリオテのユダに、ご自分の命と愛のすべてを与えて、嬉しかったのではないでしょうか。
 主イエスがぶどう酒に浸して渡す一切れのパンは、主イエスの与える命と愛の象徴です。そのものです。主の命と愛が渡されていたことを、事を起こしてしまった後で、主イエスはユダに思い起こしてほしかったのです。主イエスの意に沿わず、離れ去り、裏切る自分さえも、主イエスは赦し、愛してくださっていたのだ、ということを思い起こしてほしかったのです。放蕩息子が我に返り、父親の家に帰って行ったように、イスカリオテのユダに、主イエスの愛の下に、神の愛の下に帰って来てほしかったのです。
 イスカリオテのユダ。果たしてこれはだれのことでしょう?私たち一人ひとりの中にも、イスカリオテのユダがいるのではないでしょうか?この世の価値観に生き、損得計算の速いユダがいるのではないでしょうか?葛藤し、迷っているユダがいるのではないでしょうか?愛を失ったユダがいるのではないでしょうか?裏切り者のユダが、私たちの内にも潜んでいるのではないでしょうか?
 けれども、そんな私たちのことも、主イエスは愛してくださいます。私たちがどのような時にも、神さまは私を愛してくださっている。だから、私たちは自分を赦し、自分を受け入れ、安心して生きることができる。神の愛による自己肯定と安心に生きる。それがクリスチャンの本領です。

 

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