坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年7月7日 主日礼拝説教「互いに愛し合いなさい」

聖書 ヨハネによる福音書13章31~35節
説教者 山岡創牧師

◆新しい掟
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

       「互いに愛し合いなさい」
 主イエスの弟子である、ということは、けっこうストレスだったのではないか。今日の聖書箇所を黙想しながら、そんなことを思いました。と言うのは、訳の分からないことが多いからです。
 直前の箇所で、イスカリオテのユダが出て行ったのも、訳の分からないことの一つだったでしょう。主イエスは弟子たちの中に裏切り者がいると言いました。顔を見合わせる弟子たちに、主イエスは、その裏切り者とは、自分がパン切れを与える者だと言った。そして、ユダにパン切れを渡された。けれども、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27節)と言って、ユダを送り出しました。その言葉と態度は、裏切り者を名指ししているとは到底思えません。だから弟子たちは、「『祭りに必要なものを買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた」(29節)のです。結局、裏切り者はだれなのか分からない。弟子たちは訳が分からず、モヤモヤしていたでしょう。
 そして、今日の聖書箇所においても、ユダが出て行った後で、いきなり「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)とか言われる。弟子たちにしてみれば“ハッ?”という感じだったしょう。いったい何が栄光なのか、訳が分からない。皆さん、主イエスが言われる「栄光」って、何だか分かりますか?
 「栄光」と言えば、私たちは、この世で成功することをイメージするのではないでしょうか? 例えば、昨日、女子のレスリング57キロ級の世界選手権代表を決める決定戦が行われました。オリンピック4連覇中の伊調馨選手と、前回オリンピックで63キロ級の金メダリストとなり、今回、階級を下げた川井梨沙子選手が戦いました。結果は、川井選手がわずかの差で勝利し、世界選手権の切符を手にしました。こういう時、私たちは“明と暗”という表現をします。試合に勝利し、代表となった川井選手は“明”、それは栄光を手にした、ということです。世界選手権、またオリンピックで優勝すれば、さらに大きな栄光を手に入れることになります。
 そのように、「栄光」と言えば、この世で成功することと考えるのが常識であり、ごく一般的な価値観でしょう。それは弟子たちも同じだっと思います。弟子たちに言わせれば、主イエスの「栄光」というのは、主イエスがユダヤ人の王様になることでしょう。それを夢見て、弟子たちもついて来ている。けれども、主イエスはまだユダヤ人の王になったわけではない。どういうことなんだろう?今から王座へのステップを踏み出すということだろうか?‥‥‥弟子たちはやっぱり訳が分からなかったでしょう。
 そして、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」(33節)と主イエスは言われる。何でだよ?!イエス様、どこに行かれるんだよ?!お城に行って、王様になるんじゃないのかよ?!おれたち、ついて行けないのかよ?!それじゃ、今までついて来た意味がないじゃないかよ!イエス様、おれたちを見捨てる気かよ?!‥‥‥弟子たちはさっぱり訳が分からなかったでしょう。
 そのように考えてみると、主イエスの弟子でいる、ということは、訳の分からないことが多く、モヤモヤして、かなりストレスのたまることが多かったのではないでしょうか。主イエスの弟子でいることも、なかなかに苦労します。
 けれども、他人事ではなく、現代の主イエスの弟子、クリスチャン足らんとする私たちも、似たようなところがあるかも知れません。聖書のことがよく分からない。信仰のことがよく分からない。教会のことがよく分からない。牧師が何やっているのか、よく分からない‥‥‥。私たちの信仰生活にも訳の分からないことが少なからずあり、モヤモヤする時もあるのではないでしょうか。このまま信仰生活を続けていて良いのか、と迷うこともあるでしょう。
 洗礼を受ける方や転入会する方には、そのガイダンスの際にお話しますが、信仰生活において分からないことがあったら、遠慮なくご相談ください、とお伝えします。訳の分からないままモヤモヤを抱えていると、やがてそれが自分の信仰をだめにすることがあります。それが教会に累を及ぼすこともあります。だから、牧師に質問し、相談してスッキリすることであれば、いつでもお申し出ください。あるいは、どなたか信徒同士でもいい。教会の風通しが良いことは大事なことです。
 けれども、それですべてのモヤモヤが解決するわけではありません。時間のかかる問題があります。事情があって話せない事柄もあります。聖書の言おうとしている内容が、自分の胸にストンと落ちて納得できるようになるには、経験と訓練による信仰の成長、成熟が必要だったりします。今、すぐに、すべての訳が分かるようになるわけではない。そういう意味では、クリスチャンの信仰生活は、訳の分からないことを心に納めて歩む忍耐と、やがていつか分かる時が来ることを信じて進む希望の生活だと言うことができるでしょう。

 けれども、主イエスに従う信仰生活において、ちゃんと理解していないことや、訳が分からずモヤモヤすることがあっても、これだけを追い求め、心に留めていれば信仰生活が成り立つこと、主イエスの弟子であることができる大切なポイントがあります。それは、主イエスが教える「新しい掟」(34節)です。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。
 この教えを心に留めて、追い求めること。この一点に、主イエスの弟子として生活することの命があり、クリスチャンとして生活することの意義があります。
 主イエスは、弟子たちに、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われました。弟子たちを突き放したかのように思われます。もちろん、「行く所」とは空間的な場所ではありません。それは、主イエスがこれから進んで行く“愛の到達点”です。十字架刑において極まる愛の到達点です。弟子たちがその地点に到達することなど、今はまだまだ思いもよらないのです
 けれども、主イエスは、その愛の到達点へ行くための“道”を示してくださいました。それが34節の掟、教えです。この教えを心に留め、祈り求め、実行していけば、分からなかったことが分かるように、納得できるようになっていくのです。
例えば、主イエスが語る「栄光」とは何かということが分かってきます。主イエスの「栄光」とは、主イエスの十字架と復活を通して表されます。けれども、復活はまだしも、十字架が栄光だと言うのはよく分からない。祭司長たちやファリサイ派の人々に陥れられ、有罪と裁かれ、十字架刑に処せられて死ぬことが、どうして栄光なのか?どう見ても敗北の死、無駄死にではないか、というのが常識的な見方でしょう。
 13章の前半を振り返ると、主イエスは弟子たちの足を一人ひとり洗いました。本来、奴隷か、いちばん下の者がする奉仕を、主であり師であるイエス様がされることで、弟子たちに、人に仕える愛の模範を示されました。
 続いて、ご自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダを処罰せずに、ご自分の愛と命のしるしであるパン切れを与えて、送り出しました。それもまた、ユダに仕え、ユダを赦す愛の模範を弟子たちに示したと言うことができます。
 そして、そのような愛の究極が十字架なのです。友のために自分の命を捨て、すべての人をその罪から、その魂の「夜」(30節)から解放するために、ご自分の命を献げる。それが、主イエスの十字架の大いなる意味なのだと聖書は私たちに説き明かしています。
 だから、十字架には「栄光」がある。愛が輝いて、私たちの心を照らす“愛の栄光”があると私は思うのです。

 話は変わりますが、NHKの連続テレビ小説で今、〈なつぞら〉が放映されています。戦後、日本初のアニメーション会社でアニメーターを目指す女性の話です。少し前の話ですが、主人公の奥原なつは、戦後、親戚に引き取られて行き別れた幼い妹の千遥が、6歳の時にその家から家出して行方知れずであることを知りました。なつが落ち込んでいる様子を察して、アニメーターの先輩である下山が、何かあった?と話しかけます。なつは、自分のことではなく知り合いの話として、幼い妹が家出をしたら、警察はそれを調べて連絡をしてくれますか?戦後で路上生活をする子どももたくさんいたような時代です。そういう子どもがまだ生きていると思いますか?と下山に問いかけます。それを聞いた下山は、自分が警官だった時の話を始めます。ぼくが新米の警官で派出所に勤務していた時、飲食店から逃げ込んで来た娘さんがいた。生活に困って娘を売ることがまだ行われていた時代で、店には斡旋業者が入っていた。警察の上司は、違法とは言えないと判断した。だけど、一緒にいた先輩は、法律を一生懸命勉強して、その娘を自由にした。上司も飲食店の店主も激怒してね。先輩は辞職も覚悟していた。今、その娘さんは、先輩の知り合いの旅館で元気に働いているよ。そして、下山は言います。
奇跡なんてもんは案外、人間が当たり前のことをする勇気みたいなもんだよ。
その話を聞いたなつは、その先輩って下山さんことじゃないんですか?だから警官をやめたんですか?と尋ねます。下山は、ハハハ、ぼくは勤務日誌に似顔絵ばかり描いていて怒られてた人間だよ、とごまかしながら離れて行きます。
 職を辞することも覚悟して、人のために行う行為を“当たり前”と言える価値観、そして行動する愛と勇気。たぶん私たちの多くは、そこに感動するのではないでしょうか。友のために、人のために十字架にお架かりになった主イエスの言葉と行為は、これと同じ愛と勇気の究極だと思うのです。だからこそ、そこには、私たちの心を照らし、感動させる「栄光」があると思うのです。

 そのような愛と勇気によって、私たちは、主イエスに愛されている。その愛が分かること、信じられること、それが信仰の原点です。そして、愛されているからこそ、あなたもその愛で互い愛し合いなさい。人を愛して、慰め、励ましなさい。それが私の弟子であるということだ、と主イエスは言われるのです。
 ところで、“あなたの教会は互いに愛し合っていますか?”と聞かれたら、私たちは何と答えるでしょうか?愛し合っています、と言えるでしょうか?一瞬、答えに詰まるかも知れません。教会において私たちが、互いに愛し合うとは、どうすることでしょうか?
 それは、教会の中に“仲良し”をつくることではありません。教会に“仲良しサークル”をつくることではありません。教会に親しく話ができる人がいるのは嬉しいことですが、そういう人がいなければ愛し合っていないということではないのです。
 私たちは、その時の状況や事情で、相手のために直接、何もできない時があります。では、そこには愛がないのか?そうではありません。私たちは、相手の苦しみや悲しみ、苦労を察することができます。相手のことを思うことができます。相手に対する思いは、クリスチャンにおいては“祈り”となります。その人を思い、心から祈る。祈りは愛です。その祈りがあるならば、私たちは、互いに愛し合っていると言うことができます。
 そして、私たちは、主イエス・キリストを礼拝するために、ここに集まります。私たちに与えられるキリストの愛を思いながら、お互いの顔を確認し、祈り合い、礼拝を守ります。だから、礼拝は愛です。こうして私たちが礼拝を共にしているということも、互いに愛し合うことにほかなりません。
 祈りと礼拝、この愛が根本にあれば、時によって私たちは、人に愛の手を差し伸べることができます。毎回ではないかも知れない。けれども、相手の必要に応えることができることがあります。電話で話したり、手紙を書いたり、訪問したり、ゆっくり話を聞いたりすることがあります。時には、もっと大きな愛を、家族に、友人知人に、教会の仲間に、あなたの“隣人”に、注ぐこともできるでしょう。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
改めて申しますが、この御言葉は、2016年度に定められた私たちの教会の変わることのない〈願い〉です。主イエスの弟子足る者の、教会のアイデンティティです。互いに愛し合うことを祈り求めて進みましょう。

 

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