坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年7月14日 主日礼拝説教 「今ではなく、後で」

聖書  ヨハネによる福音書13章36~38節
説教者 山岡創牧師

◆ペトロの離反を予告する
13:36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
13:38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

                       「今ではなく、後で」
 ペトロは、主イエスの言葉を、よく聞いていませんでした。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。
主イエスは、弟子たちにこのように語りかけました。「新しい掟」と言うのですから、これは極めて重大な言葉です。今まで、弟子たちをはじめユダヤ人は、“古い掟”である律法に従って生きて来ました。けれども、これからは「新しい掟」を自分の人生の基準にして生きていくのです。しかも、「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)と言うのですから、新しい掟は主イエスの弟子であることのしるしであり、クリスチャンであることの最重要課題であると言うことができます。
 けれども、ペトロは、それほど大切な主イエスの言葉を聞いていませんでした。ペトロは、その直前の主イエスの言葉に心を囚われていたのです。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(33節)。
 ペトロは、この言葉が気になって、後の言葉は上の空、よく聞いていませんでした。心の中で“なんで?、どうして?”という思いが渦巻いていたでしょう。それで、主イエスの言葉が終わるや否や、いの一番に、「主よ、どこへ行かれるのですか」(36節)と尋ねたのです。

 ペトロにとって、主イエスの言葉は心外だったのかも知れません。ペトロは、ガリラヤ湖で漁師をしていたところから、「わたしについて来なさい」と召し出されて以来、主イエスに従って来た。主イエスの祈りによって、12人の弟子が選ばれた時、その筆頭として選ばれたのは自分だった。主イエスに遣(つか)わされて、ガリラヤの町や村に、神の国の救いを宣べ伝えもした。主イエスのことを、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時、主イエスから天国の鍵も授けられた。そうやって、主イエスとの信頼関係を築きながら、神の都、ユダヤ人の魂の町、エルサレムまで旅を共にしてきた。一言では言い尽くせない苦労を共にしながら、ペトロは主イエスと、信仰の旅、伝道の旅を共に歩んで来たのです。
 それが、エルサレムまで来て、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と主イエスは言われる。ペトロは、突き放されたような気持になったでしょう。“なんでだよ?!、どうしてついて行くことができないんだよ?!、イエス様、俺のこと、信頼してないのかよ?!”。ペトロは寂しい気持にもなったかも知れません。
 そんなペトロの気持を察してか、主イエスは改めてペトロに語りかけました。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(36節)。
「今はついて来ることはできない」、しかし「後でついて来ることになる」と主イエスは、加えて、言い直されました。この“今ではなく、後で”ということが、今日の御(み)言葉のいちばん大切なところだと私は感じています。

 そもそも、主イエスはどこに行かれるというのでしょうか?ペトロをはじめ弟子たちは、その行先を、どこかの“場所”だと勘違いしました。だから、どうしてついて行けないのか?と思ったのです。
 けれども、主イエスが「行く所」とは、空間的な場所ではありません。精神的な場所であり、それは愛の問題なのです。人を愛することにおいて、どこまで愛せるかという、“愛の到達点”のことを主イエスは語っているのです。
 13章の前半で、主イエスは弟子たちの足を一人ひとり洗いました。本来、奴隷か、いちばん下の者がする奉仕を、主であり師であるイエス様がされることで、弟子たちに、人に仕える愛を示し、愛の模範とされました。
 続いて、ご自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダを処罰せずに、ご自分の愛と命のしるしであるパン切れを与えて、送り出しました。それもまた、ユダに仕え、ユダを赦(ゆる)す愛をお示しになったと言うことができます。
 そして、そのような愛の究極が十字架なのです。祭司長や律法学者たち、ファリサイ派の人々との対立から、そう遠くない将来、ご自分が捕らえられ、裁きにかけられることを、主イエスは予感しておられました。その時を、主イエスは、父なる神さまのご計画に沿って、友のために自分の命を捨て、すべての人をその罪から解放するためにご自分の命を献げる機会にしようと考えておられたのです。そのために、主イエスは十字架で死のうとしていました。
 しかも、友のために命を捨てるとは、すなわち弟子たちのために命を捨てるということです。ペトロのために命を捨てるということです。主イエスご自身が裁かれる。命を奪われるかも知れない。その累(るい)が弟子たちに及ばないように、ご自分の命を盾とし、免罪のためのいけにえとし、弟子たちの命を救おうとする。そういう「所」にまで、愛の究極の到達地点にまで、主イエスは行こうとしているのです。
 そして、その地点に、「今」ついて来ることはできない。ペトロよ、あなたはまだ、そこまで愛を深めていない、極めていない。けれども、「後で」ついて来ることになる、と主イエスは語りかけるのです。
 そのために、主イエスは、弟子たちが後でついて来るための“道”を示してくださいました。それが「新しい掟」だったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この掟を守り、互いに愛し合う道を歩くことによって、弟子たちは、私たちは、「後で」主イエスについて行くことになるのです。「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」と、主イエスは弟子たちを突き放したように見えますが、ちゃんと、ついて来る道を用意してくださっているのです。
 もちろん、私たちが、友のために命を捨てるという愛の究極の到達点に達することなど、まずできないでしょう。そこまではなかなか行けない。それで良いのです。主イエスも私たちに、そこまで求めていません。だから、「ついて来ることになる」と言っているのです。主イエスと同じ地点に達するのではなく、主イエスを模範としながら、ついて行くのです。主イエスの愛を思いながら、人を愛し、互いに愛し合う道を歩いて行くのです。時には自分の何かを捨てて、何かを献げて愛することを意識しながら、ついて行くのです。その道を歩いて行ったら、主イエスの愛の深さ、大きさを、実感として感じるようになって来て、その愛で愛されている感謝が、喜びが増し加えられるに違いありません。

 ペトロは、今はついて行くことができない。けれども、後でついて行くことができるようになるのです。
 けれども、ペトロは、その言葉を受け入れることができませんでした。
「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(37節)。
ペトロは「今」ついて行きたいのです。そのために奇しくも、「あなたのためなら命を捨てます」と、愛の究極の到達点を口にしました。もちろんペトロも本気だったのでしょうが、それは簡単にできることではありませんし、口にして良いことでもありません。主イエスは、ペトロの愛がまだそこまで達していないことを知っています。そのために、ペトロは、「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(38節)と予言されて、そのとおりになってしまうのです。
 けれども、ペトロのこの気持、私たちも、よく分かるのではないでしょうか。今、分かるようになりたい。今、できるようになりたい。今すぐ、自分を変えたい。私たちは、そんな焦りにも似た願いを、胸の内に持つことがあります。
 けれども、今、できないことがあります。今、変えられないものがあります。今は耐えなければならないことがあります。今は受け入れなければならないことがあります。すぐには分からないこと、できないこと、変えられないことがあります。だからこそ、私たちは、ラインホールド・ニーバーの祈りを、“私自身の祈り”としたい。
  主よ、お与えください
  変えられるものを変える勇気を
  変えられないものを受け入れる落ち着きを
  そして、その両者を見分ける知恵を
 この祈りを心に抱きながら、私たちは耐えて受け入れる。けれども、この祈りを心に抱きながら、主イエスが、「後で」ついて来ることになる、と言われた道を歩む。人を愛し、互いに愛し合う道を生きる。主イエスの「新しい掟」は、私たちにとって、人生の究極の真理です。道しるべです。人を愛し、互いに愛し合う道を歩き続けたら、必ず分かることがある。できることがある。変わることがある。私はそう信じています。

 私は、教会から逃げ出したかったことがありました。愛に悖る(もとる)ことをして、教会員を深く傷つけたことがあったからです。一人の青年の教会員が突然、天に召されました。教会員であったそのご両親が深く悲しみました。しばらくして、東京に住むそのご両親の娘さんが、当教会に転入会したいと申し出られました。ご両親はとても喜びました。けれども、私は、東京からここまで通いで教会生活はできないと思い、転入会を承認しませんでした。そのために、息子の死で悲しみに傷ついたご両親の心を、更に傷つけることになりました。私が牧師になって1年目の出来事でした。
 私は、自分がしたことの結果を見て、良心の痛みを感じ、お二人に対して心苦しく、また教会に対して恥ずかしくなりました。教会から逃げ出したい。そんな気持が3~4年は続きました。
 教会員であったそのご両親は、お二人とも既に天に召されました。けれども、私はそのことを思い出すと、今も申し訳ない気持になります。
 けれども、後になって、“正しさは人を救えない。人を救うのは愛だ”と知りました。“一人にとどくあたたかさ”の大切さを知りました。今は、そのことが分かる。そして今も、人を愛し、互いに愛し合う道を志しながら、時に失敗をし、それでも主イエスに赦され、時に知らなかったことに新たに気づき、愛の重さ、愛の大切さを実感しながら生きているのが、“後の私”、いや“今の私”だと思います。
 今日の御言葉を黙想しながら、なぜか私は、そんな自分の“今と後”の姿を思い起こしていました。今は分からなくとも、後で分かるようになる道を、主イエスは用意してくださっています。後でついて行く。信仰生活は、この“後で”がミソです。“後で”に恵みがあります。

 

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