坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年7月21日  主日礼拝説教 「神が清めた物」

聖書 使徒言行録11章4-18節
説教者:野澤幸宏神学生

 

11:4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
11:5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。
11:6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。
11:7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、
11:8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』
11:9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。
11:10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。
11:11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。
11:12 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。
11:13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
11:14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』
11:15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
11:16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。
11:17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
11:18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。


                             「神が清めたもの」

 本日の聖書のみ言葉は、前章の10章において起きた出来事を、使徒ペトロがエルサレムの教会へ報告している内容、つまり10章の要約になっています。
10章の物語は、エルサレムから北西に100kmほど離れた地中海に面した町、カイサリアから始まります。その町に駐屯(ちゅうとん)していたローマ帝国の百人隊長、コルネリウスという人物に、神さまからの啓示(けいじ)が与えられます。コルネリウスは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の軍隊組織の構成員でありながら、「神を畏(おそ)れる者」でした。これは、現代の教会の言葉で言えば「求道者」に当たるでしょうか。ユダヤ教徒ではない異邦人でありながら、ユダヤ教の集会に参加している人たちを指す言葉です。そして、彼が受けた啓示とは、使徒ペトロを自分のところに招きなさいというものでした。同じ頃、そのペトロの方にも、神さまからのお告げが幻として現れます。彼はこの時、主イエスの福音(ふくいん)を宣べ伝えるため、「方々を巡り歩」いており、カイサリアから40㎞ほど離れた、やはり地中海沿岸のヤッファという町の近くにいました。ちなみに、この町は現在、現代のイスラエルの実質首都であるテル・アビブの一部となっているそうです。ペトロが見た幻の内容は、今日の聖書の5節から10節でペトロが語っているものです。「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて」きたのです。その布の中には、「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥」が入っていたのです。続けて、声が聞こえます。それらを「屠(ほふ)って食べなさい」と。ペトロはこの声に対して、「主よ」と言っていますから、神さまからのお声が直接聞こえたのです。
ペトロはそのお声に対し、「とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と返答しました。食べることはできません、と言うのです。どうして、神さまからのお声に対して、そのように返答したのでしょうか。それを理解するには、旧約聖書の教えを確認しないといけません。旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はまとめて律法と呼ばれ、神さまから与えられた約束、守らなければならない戒め、教えとして大切に考えられていました。その中で、レビ記11章で定められている、いわゆる食物規定が今回の物語に関わってきます。そこを見てみると、本当に細かく、食べてよい動物と食べてはいけない動物について記されています。現代のわたしたちで言えば、ペットとして飼っている犬や猫を食べようとはまず思わないと思います。それくらい当たり前の常識として、ペトロたち当時のユダヤ人は、ここに記されている動物などを「汚れた物」として当然食べない物と考えていたのです。現在でもこの食物規定、食べ物のタブーは、ユダヤ教のカシュルート、イスラム教のハラールという形で受け継がれています。現代では、多様な文化を互いに認め合うという考え方が一般的になっていますから、このような各宗教がもつ食のタブーに配慮することが、日本でも行われるようになってきています。

さて、本日の聖書の物語に話を戻しましょう。今お話ししてきたように、ユダヤ人の常識としては当然の返答をしたペトロに対し、神さまのお声は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と重ねてお答えになります。この言葉は原文のニュアンスにより近付けて訳すと、「神が清めたものを、あなたが不浄なものとしてはならない」となります。ユダヤ人であるペトロは、当然伝え聞いてきたレビ記の教えが神さまのご意志であると信じてきました。しかし今、神さまご自身のお声で真逆のことが示されたのです。これはつまり、神さまのご意志はこうだ、というのを自分の考え、人間の考えで決めつけるのをやめなさい、と神さまはおっしゃっているのだと思います。
わたし自身のことを振りかえってみると、これまでの神学校の学びがまさにそうだったと思わされています。今まで、いかに自分に都合良く聖書を読んできたか、解釈してきたか。学びが深まるにつれて、自分では神さまのことを知ることが出来ない、分からないと突きつけられ、謙虚にさせられていくのを感じています。
話が少々逸(そ)れましたが、要はこの神さまのお声は、それまで抱いてきた価値観を転換せよ、ということをおっしゃっているのです。ユダヤの常識を超えて、神さまご自身のご意志が示されました。その価値観に従いなさい、ということです。この声に聴き従い、ペトロはカイサリアのコルネリウスの家を訪ね、彼とそこに集まって来ていた大勢の人に福音を語ります。つまり、ナザレのイエスこそがメシアであり、その活動で多くの人が救われたこと、ユダヤの当局者たちによって十字架につけられ処刑されたこと、復活し人々の前に現れたこと、そしてこのイエスを信じることで罪から赦(ゆる)されることを証ししたのです。
その結果、ペンテコステの日に、弟子たちに起こったのと同じ出来事が、ここでも起こるのです。そこに集まった人々に聖霊が降り、異言を語りだします。神さまの聖霊が、ユダヤ民族の常識からすれば救いの外にいると考えられていた、いわゆる異邦人たちにも降(くだ)ったのです。そして、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」のです。

今日の箇所の16節でペトロは主イエスの言葉を思い出しています。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける。」とまさに主イエスご自身が言われたとおりに、主イエス・キリストの名によって聖霊の洗礼が異邦人たちに授けられたのです。主イエスが十字架にかかり、罪を贖(あがな)ってくださったのは、ユダヤ民族だけではないのです。すべての人です。その意味で、神さまの救いは全く新しい段階に入りました。そのことが、異邦人たちも主イエスを通して示された神さまを信じ、聖霊を受けたことによって、目に見える形で示されたのです。神さまが、最初に律法を授け、救いのモデルとして選ばれたのは、確かにユダヤ民族でした。しかし、ペンテコステの後の、聖霊に導かれた弟子たちの行動と、それを受け入れた人々がいたことによって、ユダヤ民族だけにとどまらない、世界中の全ての人へ、神さまの救いが広がっていくことが証しされていくのです。
今日の箇所で、この報告を語っている使徒ペトロは、言うまでもなく、主イエスの一番弟子です。それは福音書において十二弟子で一番登場回数が多いことからも分かります。しかしそれは裏を返せば、一番主イエスからのお叱りを受けている弟子、とも言えます。そして、いざ主イエスが捕らえられ十字架につけられようとするとき、大祭司の庭まで様子を見に行きながら、「主イエスのことなど知らない」と裏切ってしまいます。いわば、残念な弟子の代表だったペトロです。そのペトロがエルサレム教会に報告をしているのが今日の箇所だと冒頭にお話ししましたが、この報告を聞いたエルサレムの指導者たちは「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と納得しています。あの残念な弟子の代表であったペトロの報告、説教とも言い換えてもいいですが、それがエルサレム教会の頭の固い指導者たちを納得させるだけの力を持ったのです。

こうして、ローマの百人隊長コルネリウスから始まった異邦人への伝道。それまで中東パレスチナのごく狭い地域で、ユダヤ民族の中だけにとどまっていた神さまの救いの御業(みわざ)が、こうしてギリシャへ、ローマ帝国全土へ、ヨーロッパへと伝わっていき、更にはアメリカを経て、東洋の異教の島国、わたしたちの日本へと、この坂戸の地まで伝わってきたのです。
いま主の教会にこうして集められているわたしたちも、神さまの救いのご計画を、教会の中にとどめていてしまってはいけません。ユダヤ人と異邦人の間の隔たりが取り払われたということは、現代日本の今この時においては、教会と教会の外との隔たりが取り払われたということです。神さまの救いは、すべての人に開かれています。このわたしたちをも、「神が清めたもの」なのです。この誇りを持って、未(いま)だ神さまのことをよく知らない人々へ、その神さまの救いを伝え続けていくのが、神に清められたものとしての、教会に集うわたしたちの使命です。そして、教会の外で救いを待つ人々もまた、同じく「神が清めたもの」です。今日のペトロのように、わたしたちも力づけられて、神さまを伝えていきましょう。

 

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