坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年9月8日 主日礼拝説教「神が一緒に住む」

2019年9月8日 主日礼拝説教       
聖書 ヨハネによる福音書14章20~24節
説教者 山岡創牧師

14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

 

                                 「神が一緒に住む」
 『こころの友』という、日本基督(キリスト)教団が毎月発行している伝道冊子があります。教会の花壇のところに設置している透明なボックスに、毎月5部入れておくのですが、月末には結構なくなります。どんな方が持って行かれているのか分かりませんが、一度、ボックスに入れるのが遅れた時、中年の男性から、“今月は「こころの友」、ないのですか? 楽しみにしているんです”と言われたことがありました。クリスチャンでない方でも、楽しく読め、教えられる内容もあるのだと思います。部数の関係で、皆さんに差し上げることはできませんが、ロビーの週報ボックスの上にありますので、一度、手にとって読んでみてください。
 今月号には、〈この人を訪ねて〉という、新聞で言う一面のところに、井田典子さんという方が紹介されていました。整理収納アドバイザーをしていて、スーパー主婦として、テレビでもよく知られている方のようです。家が片付かずに困っている方の依頼を受けて、片付け訪問を行っており、その件数はこれまでに250件を超えているとのことです。


  片付けで訪問する部屋は、たいてい物があふれ、依頼者の表情も暗い。物が増えて行った経緯や、手放したくない思いに寄り添いながらも、これからを見据えた整理を促(うなが)す。家が明るくなると、その人の表情も明るくなる。そのことが何よりもうれしい。


そのように語る井田さん、家の中で途方に暮れている人の姿は、かつての自分と重なる、と言われています。
 その人の家の中に入ってみて、初めて分かること、見えることがあるのだろう、と思います。その家にどんな物があるのかというだけでなく、その家の生活の様子や、そこで暮らしている人の気持‥‥そういうものも見えてくるのでしょう。ある意味で、その人の生活を“内側から”見ることになるからです。

 井田典子さんの記事と、今日の聖書の23節の御(み)言葉が、私の中で結び付きました。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(23節)。
 主イエス・キリストを愛する人のもとに、父なる神とキリストが来て、一緒に住んでくださる、と言われるのです。一緒に住む、ということは、同じ家に住んで生活を共にする、ということです。それは、その人の生活を内側から見るということであり、その人の話を聞き、その人の気持を知り、寄り添い、支えたり、アドバイスしたりするような生活ができる、ということです。主イエスは、そういう関わりを、ご自分を愛する人、信じる人と持ってくださると言われるのです。
 けれども、よくよく考えてみると、一緒に住むというのは、簡単なことではありません。皆さん、現実的に考えて、自分が一緒に住みたいと思う人、一緒に住んでも良いと思える人とは、どんな人でしょうか?そう考えてみると、神と一緒に住む、キリストと一緒に住むということが、口で言うのは簡単だけれど、それを信仰生活の上で実現しようとしたら、決して容易ではないことに気づくでしょう。
 私たちが、一緒に住みたい、住んでも良いと思える相手は、気の合う人で、しかも信頼できる人ではないでしょうか。そういう人がいれば、シェア・ハウスをして、共同生活をしても良い、と青年は考えるかも知れません。もっと言えば、私たちが、一緒に住んで、一緒に生活したいと思う人というのは、結婚したいと思う人でしょう。つまり、一言で言えば、愛している人です。愛しているから、生活を共にし、言葉を共にし、気持を共にしたいと私たちは願うのです。

 一緒に住むためには、愛が必要です。愛が前提です。そう考えてみると、イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」(22節)と尋ねたその理由が見えて来ます。「ご自分を現そうとなさる」という言葉を、「その人のところに行き、一緒に住む」という言葉に置き換えて考えると、その人が主イエスと一緒に住みたいと願っていなければ、つまり主イエスを愛していなければ、主イエスが一方的にその人のところへ行って、一緒に住むことはできないわけです。「世」というのは、それを望んでいない人々です。主イエスを見ようとも知ろうともしない人々です。だから、主イエスはその人のもとに行くことができない。その人に自分を表わすことができないのです。
 けれども、弟子というのは、主イエスを愛する人だから、主イエスと一緒に住みたいと願う人だから、主イエスと父なる神は来て、一緒に住んでくださるのです。
 そこで、私たちに問われることがあります。私たちは、主イエスと一緒に住みたいと願っているでしょうか?主イエスとのお付き合いを、つまり信仰生活を、そこまで考えているでしょうか?一緒に住むということは、生活を内側から見られる、ということです。自分の考えや気持ちを内側から知られるということです。良いところばかりで付き合うわけにはいかない。悪いところも見られます。欠点や誤りも知られますし、胸に渦巻く様々な気持も知られます。あなたは、それを願っているか?自分のすべてを主イエスに告白し、知ってもらい、その上で受け止めてもらいたいと願っているでしょうか。そうではなく、恋人同士のデートのように、表面的なところでだけ、格好良いところばかりを見せて付き合おうとしているとしたら、自分に都合の良いところだけでイエス様と付き合おうとしているのだとしたら、イエス様だって、私たちと深いお付き合いはできないでしょう。私たちの心の話に耳を傾け、私たちの気持を知り、私たちを受け入れるには至らないでしょう。
 私たちが心を開いて、本気で、本音で主イエスと向き合う時に、主イエスは私たちの内側に一緒に住んでくださるのです。私たちの声に耳を傾け、気持を受け止め、安心を与え、勇気と隣人への愛を備えてくださるのです。信仰とは、礼拝において、聖書において、祈りにおいて、そして日常生活において、主イエスとのそのような霊的な交わりに生きることです。それによって私たちの心の内(家)は整理整頓され、何が大切か、何が大切でないかが見えて来ます。“心の断捨離(だんしゃり)”、不必要なものは捨てることができます。大切なものに従って生き方を整え、人間関係を見直すことができます。そこに人生の明るさが生まれます。喜びが、感謝が、幸せが生まれるのです。

 そのように主イエスに整えられた心に残る大切なものは、主イエスの言葉、主イエスの掟なのでしょう。15節からのまとまりの中で繰り返し語られています。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(15節)。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(23節)。主イエスの言葉、主イエスの掟とは、ただ一つです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)。これ一つです。
 この掟・言葉に従って生きるということは、言い換えれば、私たちが神と共にすみながら、互いに、一緒に住むということではないでしょうか。一緒に住むことができる“家”を造るということ、つまり“教会”を共に造り上げるということではないでしょうか。それは、「だれでも、わたしの天の父の御心(みこころ)を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12章50節)と言われた主イエスの言葉を実現しようとする努力であり、祈りです。
 もちろん、毎日一緒に生活している家族のようにはいかないかも知れません。けれども、私たちは、父なる神と主イエス・キリストをほめたたえて礼拝を共にすることができます。そこで、神と人に愛されている恵みと、神を愛し、人を愛する大切さを学び、共有することができます。その愛に立って、お互いのために祈り合うことができるようになります。お互いの話に耳を傾けることができるようになっていきます。お互いの気持に寄り添えるようになっていきます。お互いに励まし合うことができるようになっていきます。一朝一夕には実現しません。でも、私たちはそれを目指します。

 この夏、大空小学校にはまりました。初代校長の木村泰子先生は、“みんながつくる、みんなの学校”に挑戦しました。教師だけでなく、生徒も、保護者も、地域の人も、みんなでつくる。保護者アンケートの中に、“あなたは、自分で大空小学校をつくっていますか?”という質問があるそうです。学校を始めてから数年は“分からない”という回答が半数、次に多かったのは“つくっていません”という答えでした。ところが、木村先生が退職した9年目には、“まあまあつくっています”という回答を含めると、“つくっています”という答えが約7割あったといいます。
 “あなたは、自分で坂戸いずみ教会をつくっていますか?”。ドキッとする問いかけかも知れません。もちろん、この教会に来て間もない人は、すぐに“つくっています”とは答えられないでしょう。けれども、この教会に関わって行く中で、みんなが“つくっています”という意識を持てるようになったら、答えられるようになったら、それは本当にすばらしいことです。私たちが一緒に住む家、私たちが神と共に住む家が、かなり実現されていると言えるでしょう。
 そのためにはどうしたら良いか?一緒に考えていきたいと思います。この家の部外者として非難や文句を言うのではなく、この家に一緒に住む者、一緒につくる者として“意見”を出し合いましょう。キリストの愛を信じて祈り合いましょう。その道の先に、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたもわたしの内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)という御言葉が、まさにストンと私たちの胸に落ちて分かるようになるのだと思います。

 

 

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