坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年1月6日 主日礼拝説教 「声を聴く」       

聖書 ヨハネによる福音書10章1〜6節
説教者 山岡 創牧師 

10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門から入る者が羊飼いである。
10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。


           「声を聴く」
  スイスの作家ヨハンナ・スピリの名作『アルプスの少女ハイジ』は、皆さんご存じでしょう。日本では1974年にアニメ化されました。私も文学作品としてよりも、子どもの頃に見たアニメの方が、印象が強いです。
余談ですが、そのアニメがトライという学習塾のコマーシャルに使われています。現代の日本の子どもたちは、あのアニメ映像を見たら、アルプスの少女ハイジとしてよりも、トライのコマーシャル・キャラクターとして見るのだろうと思うと、ちょっと残念です。
 それはさて置き、この物語(アニメ)の中に、ペーターという少年が出て来ます。村の少年で、毎日、ハイジのおじいさんであるアルムの山羊(やぎ)の群れを預かって、山に連れて行き、草を食べさせ、一日世話をします。
 今日の聖書箇所を黙想しながら、私はふと、そのシーンを思い出しました。ヤギと羊では、ちょっと性質が違うかも知れませんが、聖書の世界でも、羊の所有者がいて、その羊の群れを、請負の羊飼いが牧草地に連れて行き、世話をするようです。だから、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」(1〜2節)という、ある意味、当たり前の言葉が出て来るのです。

 このたとえ話において、羊飼いにたとえられているのは語っている主イエスご自身であり、盗人、強盗にたとえられているのは「ファリサイ派の人々」(6節)でした。
 ファリサイ派はユダヤ教の主流派であり、神の掟である律法を熱心に、厳格に守ろうとするのが特徴でした。特に彼らは、安息日の掟を重んじました。神さまが天地を創造された時、6日間でその業を終え、7日目に休まれたことにちなんで、人も1週間の内、7日目には休む。一切、仕事はしない、という掟でした。その掟のことで、ファリサイ派の人々は主イエスとしばしば対立しました。
 直前の9章に、その対立のワン・シーンが描かれています。主イエスが、生まれつき目の見えない人を癒(いや)した話です。主イエスは通りすがりに出会った、生まれつき目の見えない人の目を癒し、見えるようにしました。その日は安息日でしたが、主イエスのポリシーは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5章17節)ということですから、主イエスは、その人との一期一会(いちごいちえ)とも言える出会いを大切に思って、その目を癒されたのでしょう。
 ところが、ファリサイ派からすれば、その行為は当然、安息日違反でした。その違反行為を裁くために、まず目を癒された人・本人が、ファリサイ派の裁判の席に証人喚問されました。続いて、彼の両親が喚問されましたが埒(らち)が開(あ)かず、目を癒された人が再度喚問されます。しかし、その人は、主イエスが安息日の掟を破った罪人だとは証言せず、主イエスこそ神のもとから来られた救い主(メシア)だと証言しました。そのためにファリサイ派の人々は怒り、彼をユダヤ人の会堂と社会から追放するという仕打ちに出ました。そこに再び主イエスが現れて、目を癒された人は、「主よ、信じます」(9章38節)と告白するというのが9章の内容です。そう、彼は、今日の聖書の言葉を借りて言えば、一匹の羊として主イエスの声を聞き分け、主イエスについて行った、と言えるでしょう。
 主イエスとて、安息日の掟を軽んじているわけではないのです。ただ、主イエスは、律法の真髄は何か、律法に込められた神の御(み)心は何か?ということを問い直して、最も大切な律法の心は“愛”にある、と汲み取っておられるのです。
 マタイによる福音書22章34節以下で、ファリサイ派の律法学者から、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられた時、主イエスは、心を尽して神を愛することと、隣人を自分のように愛することだとお答えになりました。神を愛するとは、神の声を聴くということだと言ってよいでしょう。それは言い換えれば、律法に、すなわち聖書に込められた神の御心を探り当てて、それに従うということでしょう。そして、神の御心を具体的に自分の生活に反映させると、隣人を自分のように愛する、ということになるのです。
 だから、主イエスは、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)13章(34節)と15章(12節)で、弟子たちにこう言われるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。
 この言葉の土台には、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われる主イエスの愛があります。主イエスを通して掘り起こされた神の愛があります。神に愛されているからこそ、愛する。それが、律法の中に、聖書の中に、主イエスが探り当てた神の御心なのです。それに基づいて、主イエスご自身が行動しているのです。
 その意味で、羊飼いか、それとも盗人・強盗かを分ける「門」という基準は、“愛”であると言ってよいでしょう。愛という「門」を通って、愛に基づいて生きているかどうか、ということです。
 ファリサイ派の人々は、律法の掟を厳格に、言葉を変えて言えば杓子定規(しゃくしじょうぎ)に守ろうとするがゆえに、神の羊の群れであるユダヤ人、イスラエルの人々を裁きました。特に、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、罪人(ざいにん)や障がいを負った人を罪人(つみびと)と断じ、律法を守れないから神に愛されない者として社会から追放しました。自分たちの信仰、自分たちの考え、価値観に合わない者を、“神の民”という羊の囲いから排除したのです。そこには“愛”がありませんでした。そして、その有様に異を唱えたのが主イエスだったのです。
 主イエスは、神の御心は“愛”であると受け止め、この神の愛を、人々に届けるためにやって来たお方でした。愛のない、愛されていない辛(つら)さを感じていた人々は、この主イエスの声を、主イエスの心を、敏感に聞き分けたのです。ファリサイ派の人々や、その律法学者たちとは違う、と聞き分けたのです。
 今日の聖書の中に、「羊はその声を聞き分ける」(3節)、「羊はその声を知っている」(4節)という言葉がありました。羊は本当に羊飼いの声を聞き分けることができるのかなぁ?と思って、調べてみました。すると、ミカエル小栗という人のブログに、こんなことが書かれていました。彼がアルジェリアで駐在員をしていた時、日常の風景の中に羊がおり、羊飼いの知り合いができたといいます。ある時、小栗さんが羊の群れの先頭に立つと、先頭の羊が立ち止まり、“どうすれば良いのか?”と羊飼いの声を聞こうとしたそうです。“ムッシュー、先頭に立たないでくれ!”と羊飼いから言われて、道を開けると、羊たちは牧草地に進んで行ったと言います。中には、道を逸(そ)れて逃げ出した若い羊がいて、羊飼いがその羊に、戻るように声をかけると、帰って来たということです。
 また、別のブログでは、子どもの羊が自分の親を見失って鳴き声を上げると、親はその声を聞き分けて、鳴いて呼び寄せると書かれていました。羊は声を聞き分けるのです。
 けれども、ミカエル小栗のブログには、こんなことも書かれていました。
声を聞き分けられない時は、己の思いが強い時。羊は、前に障害物があると羊飼いの声を待つ。待たない羊は、勝手にあらぬ方向に走り出した結果、迷ってしまう。
 それで思い出したのが、NHKの連続テレビ小説〈まんぷく〉のワン・シーンでした。日清食品の創業者をモデルにした主人公・橘萬平に、大阪の信用組合から理事長を引き受けてほしいとの依頼が舞い込みます。萬平は、自分はその器ではないのではないかと迷い、家族に相談します。すると、義理の母である今井すず(松坂慶子)は、絶対に引き受けてほしい、子どもたちのためにも早く堅気(かたぎ)の人間になってくれ、と涙ながらに頼みます。一方、妻の福子は、萬平さんが自分で決めてください、と言い、家族の意見が割れます。その夜、福子は夢を見ます。夢の中に、亡くなった姉が出て来て、対話の末に、理事長の依頼は引き受けなくていいと姉が言います。翌朝、その話をすると、母親(すず)は、そんなはずがないと言います。自分の夢にもよく娘が出てくる。あの子が、そんなことを言うはずがない、それは間違いだ、萬平さんに理事長に就けと言うに決まっていると、すずは主張します。
 いつものすずさんのキャラクターだなぁと思って見ていたのですが、“声が聞き分けられない時は、己の思いが強い時”という言葉に、ふと、このシーンを思い起こしました。萬平に理事長に就いてほしいという己の思いを、亡くなった娘の意思だ、声だと言い張るのです。
 私たちは、聖書を通して、神さまが私たちに何を語りかけておられるか、主イエスが何を求めておられるか、その声を聞きます。肉声ではなく、心の耳で、声にならない声を、神の言葉を聴きます。それは、信仰による一種のインスピレーションです。聖書的な表現で言えば、聖霊が私たちに働いて、神の声が聞こえるということになります。
 けれども、己の思いが強いと、その声が聞こえなくなります。いや、己の思いを神の声だと勘違いすることがあります。その勘違いは、自分は神の声を聞き、神の御心が分かっているから、自分は正しく、相手が間違っているという独善、自己絶対化を生みます。そして、ともすれば殺人やテロさえも神の声として肯定するようになります。それを狂信と言います。
 私たちは、聖書を通して自分が感じている声が、神の声かどうかを聞き分ける必要があります。その基準となるものが“愛”です。その声に神の愛を感じるか?“あなたはあなたらしく、あなたのままに生きていいよ”と、裁きではなく、自分が自分のままに受け入れられている平安を感じるか?その愛に基づいて、あなたも隣人を愛しなさい、との声が聞こえてくるか?自分が好きな、仲の良い相手ばかりでなく、自分が嫌いな、苦手な相手にも、心を用いるように、との声が聞こえるか?それが、神の声を聞き分ける基準になります。
 ただし、自分の信仰(のインスピレーション)だけでは、聞き分けられないこともあるでしょう。神の声だと思い込んで、間違うこともあるかも知れません。だから、私たちは聖書の御(み)言葉を聞き続けます。学び続けます。そして、自分を吟味し、自分に愛があるかを真摯(しんし)に問い続けるのです。信仰生活は、それ以外にありません。
 新しい一年も、神の声を聞き分けて、その声に従って人生の道を進んでいきましょう    。


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