坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年1月12日  主日礼拝説教       「悲しみは喜びに変わる」

聖書 ヨハネによる福音書16章16~24節
説教者 山岡創牧師

            <悲しみが喜びに変わる>
16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 

                 「悲しみは喜びに変わる」
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。
 最後の晩餐(ばんさん)の席上で語られた主イエスのこの言葉に、弟子たちは戸惑いました。主イエスが何を言っているのか、その意味がよく分からなかったからです。
 「あなたがたはわたしを見なくなる」。そう言われても、主イエスは現に自分たちの目の前にいる。こうして一緒に食事をし、話もしている。エルサレムにやって来て、確かに祭司長や律法学者たち、ファリサイ派の人々の反発は強いけれども、それが主イエスと別れることになる原因とは思えない。どうして主イエスを見なくなるのか、別れなければならないのか、その理由が分からない。それが弟子たちの気持だったでしょう。
 この時、弟子たちはまだ、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々が、主イエスを捕らえ、殺そうと計画していることを知らなかったのでしょう。弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスを裏切り、彼らを手引きしようとしていることを知らなかったのでしょう。だから、主イエスの言葉が理解できず、切迫感(せっぱくかん)もなかったのです。
 この夕食の直後、オリーブ山に行って、いつものように夜の祈りをしている時、主イエスは捕らえられます。ユダが、捕縛者(ほばくしゃ)たちを引き連れてやって来て、主イエスは捕らえられ、祭司長や律法学者たちが待つ裁判の席に連れて行かれます。そこで主イエスは裁かれ、神に対する冒涜(ぼうとく)の罪で有罪判決を下され、死刑を宣告されます。そして、十字架に架けられて殺される‥‥。
主イエスは、このような自分の運命を予感しておられたのでしょう。だから、「あなたがたはもうわたしを見なくなる」と言われたのです。そして、弟子たちは、主イエスとの突然の死別を体験し、師と仰ぎ、従って来た大切な人を失うことになるので、「あなたがたは泣いて悲嘆(ひたん)に暮れる」(20節)と言われたのです。
ある意味で、主イエスは人が悪い。はっきりと分かるように言えばいいのに、包み隠すように話して、謎のようなことを言われる。私たち、聖書を読む者は、いつも“謎解き”を求められているようです。

 そして、更に謎なのは、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」という言葉でしょう。単純に考えれば、主イエスがしばらく弟子たちのもとから離れて、後でもう一度、弟子たちのもとに戻って来る、という意味に取れます。
けれども、もちろんそんな単純な話ではありません。主イエスは十字架に架けられて死ぬのです。その運命を知りながら、またわたしを見るようになる、と言うのには、もっと深い意味があります。
この言葉を受け取るには、直前の16章4~15節からの文脈で考えると理解できます。主イエスは、「わたしが(去って)行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(5節)と言われました。また、「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(12節)とも語っています。ここで言われている「弁護者」であり、「真理の霊」と呼ばれている方は、すなわち聖霊のことです。
私たちは、神さまのことを、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神、この三者が三つに一つであると、つまり三位一体(さんみいったい)の神として信じています。その一角である聖霊(せいれい)なる神が、弟子たちのもとに来てくださる、ということです。
主イエスは十字架に架けられて死ぬ。けれども、復活して父なる神のもとに、すなわち天に昇る。そして天から、ご自分の代わりに聖霊を弟子たちのもとに送る、と約束してくださっています。そして、「その方は‥‥わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(14節)と言われているように、主イエスと聖霊とは一つです。主イエスの言葉を、主イエスの心を、主イエスの愛を宿した霊が来てくださるのです。だから、聖霊が来てくださることは、主イエスと再会することと同じです。それで、主イエスは「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われたのです。
聖霊が弟子たちのもとに来ると、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とありました。どうして主イエスが冒涜の罪で裁かれ、十字架に架けられて死ななければならなかったのか、その訳が分からず茫然(ぼうぜん)とし、主イエスを失った悲嘆に暮れていた弟子たちが、十字架の意味を悟る時が来るのです。主イエスが自分たちの身代わりとなって死んでくださったこと、自分たちの罪を背負って犠牲になってくださったこと、救いの道を拓(ひら)いてくださった恵みを悟るのです。その主イエスが、見えない霊となって自分たちのもとに帰って来てくださった慰めを、いつも共にいて、神の愛で満たしてくださる喜びを味わうことになるのです。
 これが、今、最後の晩餐の席上で、主イエスが弟子たちに、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)と言われたこと。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしはあなたがたと再び会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(22節)と主イエスが約束してくださっている内容です。言うなれば、弟子たちは、主イエスという大切な対象を失った喪失(そうしつ)の悲しみから回復していく心の癒(いや)しを、信仰によって体験することになるのです。

 私たちも、大切な何かを失う対象喪失の体験をします。失う対象は様々です。例えば、大切にしていた物を失うことがあります。かわいがっていたペットを失うことがあります。何十年も携(たずさ)わって来た仕事とその地位を、退職によって失うことがあります。失恋して恋人を失うことがあります。受験に失敗して進路を失うことがあります。思い描いていた目標を失うことがありますし、すがっていた希望を失うこともあります。病気や事故によって健康を失うこともあります。そのように、大切にしていた対象の喪失によって、私たちは、心の中にポッカリと穴が開いたような悲しみを体験します。
そのような対象喪失の悲しみの中で、最たるものは、愛する人を失う悲しみではないかと思われます。夫を失う。妻を失う。子どもを失う。親を失う。大切につき合って来た友人を失う。その時、私たちはどんなに大きなショックを受け、悲嘆に暮れるか分かりません。その悲しみが嵩(こう)じて、鬱(うつ)になることも私たちの人生にはあり得るでしょう。そのような悲しみと、どのように向き合って生きていくか、それは私たちの人生で、とても重要なことだと言えます。
既に召された方ですが、小此木啓吾という精神科医、精神分析家がおられました。この方が、〈対象喪失とモーニング〉という文章の中で、悲しみから来る鬱について、次のようなことを書いておられます。
鬱状態に落ち込むというとよくないことのようですが、われわれ精神科医は、人間が鬱になるということを非常に高く評価しています。悲しんだり、鬱になれる人というのは正気の状態、目が覚めている状態にあるのです。‥‥‥そもそも、本当にどうにもならない喪失や現実に出会ったときに鬱になるのはしかたがないことです。そのような鬱というものを決して避けないで、その中に自分を置くことを通すことではじめてほんとうの意味での新しいものがそこから再生したり、生まれ変わったりする道も開けるのです。(『現在社会の悲しみといやし』AVACO、28~29頁)
 人生の現実から逃げたり、ごまかしたりしないで、悲しみをちゃんと悲しむということでしょう。そして、小此木先生は、こう言われています。
 悲しむ心の能力には一定の環境条件、それから、だれが悲しみを共にしてあげられるか、という悲しみを共にする人の存在があるかないかということが、とても重要な意味をもっているのです。(前掲書39頁)
 そのような、共にいて援助してくれる人がいることによって、自分の失ったものを受け入れることができるようになるという体験を当事者が持てるようになる(39頁)、と小此木先生は結論付けています。

 主イエスを信じ、聖霊を信じる信仰は、悲しみが癒されていき、自分の失ったものを受け入れることができるようになる大きな援助になり得ます。
 以前にもお話しましたが、一人の女性信徒が、クリスマス・イブに夫を亡くしました。まだ小さい3人の子どもを抱えていました。女性はクリスマスを迎(むか)える度に、“どうしてこの日に、こんなに悲しまなくてはならないのか?”と神さまに訴え続けて来ました。けれども、やがてこの女性は、そんな自分のところに、神さまは独り子イエス・キリストを送ってくださったのだと気づいたと、老齢になったこの女性信徒は語りました。
でも、ある時、わたしの悲しみが天に上って行くのをご存じだったからこそ、神さまは天から、その独り子であるイエスさまを、地上のわたしのところへ遣(つか)わしてくださった、それがクリスマスの出来事だと思い至ったのです。そのとき、言い知れない慰めと喜びを覚え、今に至っています。(『信徒の友』2012年12月号19頁)
 また、不慮(ふりょ)の交通事故で息子を失った母親の悲しみ、嘆きを前に、何も説明できず、語ることができない一人の牧師は、ただその母親と詩編88編を読み続け、祈り続けました。そして、つぎのような変化がこの母親に起こったと言います。
 半年くらいたってから、はじめて婦人は私に、「先生、わかってまいりました」とおっしゃいました。神が来て、耳を傾けて聞いてくださっている。手を打ってくださろうとしていることがわかってきました、とおっしゃるのです。これは恵みでした。そして喜びに変わって来ました。(『現代社会の悲しみといやし』141頁)
 自分のところに神が来てくださる。主イエスが来てくださる。聖霊が来てくださっている。その方が、援助者として自分と悲しみを共にしてくださろうとしている。信仰を通して、そう感じた時、悲しみからの癒しが起こり始めたのです。失ったものを受け入れることができるように、少しずつ変わり始めたのです。悲しみが、喜びに変わり始めたのです。

 主イエスは言われます。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(24節)。悲しみの中にある者よ、神の慰めを求めなさい。悲しみからの癒しを求めなさい。人の思いを超えた喜びを求めなさい。聖霊なる神が来てくださることを祈り願いなさい。主イエスは、私たちに、そのように語りかけておられます。
 そして、与えられた喜びは奪い去られることはありません(22節)。変わることはありません。なぜなら、聖霊なる神は変わることがないからです。神の愛は永遠であり、最後の最後まで残るからです。この世のものは過ぎ去り、変わって行くので、そこに根拠を置く喜びは、やがて失われます。けれども、神の愛を信じ、共にいてくださる神に根拠を置く喜びは、奪い去られることはありません。この変わることのない喜びを、信仰によって祈り求めていきましょう。

 

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