坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年5月24日 主日礼拝説教(創立記念日)      「マリアとラボニ」

聖書 ヨハネによる福音書20章11~18節
説教者 山岡創牧師

◆イエス、マグダラのマリアに現れる
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主(しゅ)が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁(えんてい)だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上(のぼ)る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
                                                  「マリアとラボニ」
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13節)。空っぽのお墓の前で、マリアは途方に暮れて泣いていました。お墓の中に、主イエスの遺体がなかったからです。
 ルカによる福音書(ふくいんしょ)8章2節には、マリアは主イエスによって「七つの悪霊(あくれい)を追い出していただいた」と書かれています。七つの悪霊が憑(つ)いていると言われるほどに、マリアは心身ともにつらく、ひどい状態だったのでしょう。そのような状態から、主イエスによって癒(いや)され、救われたのです。それで、マリアは自分の人生を主イエスに献げ、従って行きました。言わば、マリアにとって主イエスは、自分を暖かく照らす“太陽”のような存在であり、自分のすべてを献げて惜しくない生甲斐だったでしょう。
 そのような主イエスが、十字架に架けられ、処刑されてしまったのです。マリアの気持を推(お)し量(はか)ると、絶望という言葉では言い尽くせないものがあったと思われます。それでも、主イエスを慕(した)うマリアの愛は消えて無くなりはしませんでした。生きている時も、死んでしまった後も、マリアの愛は変わりませんでした。だからこそ、マリアは日曜日の早朝、だれよりも早く、主イエスが葬(ほうむ)られた墓にやって来たのです。
 ところが、主イエスの遺体が墓から無くなっている。肝心の主イエスがいない。どこにいるのか分からない。取りあえずペトロたちを呼びに行ったものの、マリアは混乱し、どうしてよいのか、どこを捜したらよいのか分からなかったでしょう。そんな中で、人の気配を感じたのか、ふと後ろを振り向くと、主イエスが立っていました。
                                                               *
 ところで、皆さん。神さまはどこにおられると思いますか?方向で言うと、前なのか後ろなのか、右なのか左なのか、上なのか下なのか‥‥。聖書では、神さまは天におられると表現されている箇所が多いですし、復活した主イエスはオリーブ山から天に昇って行かれたわけですから、私たちは、神さまは上におられると考えるでしょう。もちろん、それは間違いではありません。
 けれども、今日の聖書箇所では、復活した主イエスはマリアの後ろにおられました。つまり普通に前を向いていたら見えない場所です。振り向かなければ見えない場所です。神さまというお方は、私たちの後ろにおられるのです。
 けれども、後ろを振り向けば、復活した主イエスが必ず見えるかと言えば、そうではありません。マリアは、自分の後ろに人が立っていることを認めました。けれども、それが主イエスだとは気づきませんでした。「園丁」(15節)だと思ったのです。
 ところが、2度目に振り向いた時には、それが主イエスだと気づき、「ラボニ」(16節、先生)と呼んで、すがりつこうとしました。最初は気づかなかったのに、2度目には気づいた。その違いはいったい何だったのでしょうか?
 それは、主イエスから「マリア」(16節)と呼ばれたからです。最初、主イエスは「婦人よ」(15節)と言いました。まるで赤の他人のような呼び方です。でも、2度目には親しく「マリア」と呼ばれました。それは、いつもの呼び方であり、聞き慣れた声だったでしょう。だからマリアは、生きている主イエスをそう呼んでいたように「ラボニ」と呼び返したのです。そこには、とても親しい関係があります。婦人と園丁のような、赤の他人の関係ではありません。「マリア」「ラボニ」と呼び合える信頼関係、愛されて愛する関係があります。
 私たちも、ただ振り向くだけでは主イエスは見えません。主イエスに愛されていることに、神さまに生かされてあることに気づきません。聖書の御言葉(みことば)に聴き、礼拝(れいはい)と祈りを通して、まるで主イエスが隣におられるかのように、主イエスと共に人生を歩む。そういう信仰生活の中で、主イエスとの信頼関係が造り上げられていき、神さまの愛が分かって来ると、自分の後ろにおられる主イエスに、神さまに気づくようになる。信じられるようになっていくのです。
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 復活した主イエスは、マリアの後ろに立っておられ、マリアを見守っておられました。私はふと、子どもと散歩をした昔のことを思い起こしました。この礼拝堂ができる前、私たち家族がまだ北坂戸のアパートに住んでいた時のことです。高麗川(こまがわ)の土手や川べりの住宅地の道を、まだ2、3歳の我が子とよく散歩をしました。子どもは、私の横を歩くわけではありません。私の前を、まるで私がいることを忘れたかのように、トコトコと歩きます。私も敢えて手を握ったりはしません。自分の好きなように歩かせます。転んでも、どうしてもでなければ手は出しませんし、危険だと思われることがなければ後ろから見守っています。けれども、子どもは時々思い出したかのように立ち止まり、後ろを振り返ります。そして、私がいることを確認すると、また私の前を歩き始めます。もしも後ろを振り向いた時、知らないおじさんが立っていたら、ギョッとして、恐れと不安を感じ、泣き叫ぶのではないでしょうか。父親である私だからこそ、安心して、また前を向いて歩き出すことができるのだと思います。
 人生は“前向きに!”とよく言われますが、私たちが本当の意味で前向きに生きられるのは、自分の後ろに立っていて見守り、生かし、愛してくださる方を信頼する信仰と安心があって初めて、できることなのではないでしょうか。
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 人生は後を振り返った時、自分が歩いて来た足跡が、その道程(どうてい)が見えます。喜びや楽しみだけではなく、苦しみ悲しみのしるしが見えます。けれども、そこに、主イエスが共に歩んで導き支えてくださったことが、神さまに愛されてきたことが信じられるなら幸いです。自分の命は生かされ、愛されてあると気づくことができるなら幸いです。マリアは、弟子たちのところに行って「わたしは主を見ました」(18節)と告げましたが、主を見るとは、復活した主イエスに出会うとは、そういうことなのです。

 

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