坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年5月31日 聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝説教   「聖霊を受けなさい」

聖書 ヨハネによる福音書20章19~23節
説教者 山岡創牧師

◆イエス、弟子たちに現れる
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣(つか)わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊(せいれい)を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦(ゆる)せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

                           「聖霊を受けなさい」
 今日は、教会のカレンダー・暦の上で、〈聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)ペンテコステ〉とう記念日を迎えました。弟子たちが、約束の聖霊を与えられ、立ち上がり、主イエス・キリストの十字架と復活を宣(の)べ伝え、教会を生み出して行った、その再出発の日です。
 ペンテコステの出来事は、新約聖書・使徒言行録(しとげんこうろく)2章に記されています。聖霊を受けた弟子たちは、様々な外国の言葉で、主イエスの恵みを語り始めるのです。去年のペンテコステ礼拝において、4ヶ国語で使徒言行録2章を朗読したことを思い起こします。
 今日は、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)20章19~23節を読みました。実は、この聖書箇所は“ヨハネによる福音書のペンテコステ”と言われています。なぜなら、「聖霊を受けなさい」(22節)と、弟子たちは復活した主イエスから命じられ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と、宣教・伝道のために遣わされていく箇所だからです。
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 弟子たちは、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(19節)、閉じこもっていました。「ユダヤ人を恐れていた」(19節)からです。主イエスを裁き、十字架に架けて処刑したユダヤ人たち、祭司長たちやファリサイ派の人々が、逃げて隠れた自分たちのことも捜し出し、処刑するのではないかと恐れていたのです。
 けれども、弟子たちの恐れはもう一つあったかも知れません。それは、復活した主イエスです。“えっ!どうして?”と思われるかも知れません。でも、よく考えてみると、主イエスが裁(さば)かれ、処刑された時、弟子たちは主イエスを裏切り、否定し、見捨てて逃げたのですから、自分たちは主イエスから恨(うら)まれていると思っていても、これは不思議ではありません。その主イエスが復活した、「わたしは主を見ました」(18節)とお墓から帰って来たマグダラのマリアから、弟子たちは告げられたのです。半信半疑、うそか本当か分からない。けれども、もし本当だとしたら‥‥‥弟子たちは喜ぶよりも、恐れたのです。復活した主イエスが自分たちを捜し出し、恨みつらみをぶつけ、祟(たた)るのではないか。そう考えて弟子たちは、鍵をかけて閉じこもっていたとも考えられます。
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 ところが、主イエスはいとも簡単に、閉じられた家の中に入って来られました。そして、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(19節)と言われました。2回繰り返されていますから、主イエスは何よりもこのことを弟子たちに伝えたかったのです。
 主イエスはこの時、“シャローム”という言葉を使われたのではないかと思われます。ユダヤ人の挨拶(あいさつ)の言葉で、神の平和が、もしくは神の平安があるように、という意味があります。私たちは、だれかとの関係がこじれ、心が閉じていると、その人に挨拶一つするのも満足にできなくなります。けれども、主イエスは、いとも簡単にシャロームと、「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに言われました。主イエスから見れば、弟子たちとの関係はこじれていない、主イエスの心は弟子たちに対して閉ざされていないからです。“何を恐れているんだい。恐れることなんてないよ。私はあなたたちを赦している。受け入れている。愛している。その気持は少しも変わっていないのだよ。だから、安心しなさい”。主イエスは万感の思いを込めて、弟子たちに「平和があるように」と語りかけているのです。
 話は変わりますが、NHKの連続テレビ小説〈エール〉を、私は毎朝、楽しみに見ています。古関裕而という昭和の時代に生きた作曲家をモデルとした内容です。主人公の古山裕一は今、東京のレコード会社でがんばっているところですが、彼が福島の家族を捨てて上京するシーンが以前にありました。裕一の実家は老舗(しひせ)の呉服屋ですが、経営が傾いていました。それで、裕一が伯父(おじ)の家の養子跡取りになるなら、伯父が裕一の実家を経済的に援助する約束になっていました。裕一は迷い悩んだ末に、母親と弟の反対を振り切り、家族を捨て、作曲の道を目指して上京します。その旅立ちのシーン、裕一は、父親に、自分は家族を捨てて行く、ごめんと、うつむきながら言います。けれども、唐沢寿明演じる父親は、“お前が家族を捨てても、俺はお前を捨てねー。心配すんな”と言って、裕一を東京へ送り出すのです。とても感動しました。
 “心配すんな”。この言葉が、主イエスの「平和があるように」と重なって聞こえます。
“お前たちが俺を捨てても、俺はお前たちを捨てねー。心配すんな”。そう言って主イエスは、弟子たちを宣教へと遣わすのです。
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「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と言われました。それは、弟子たちも「あなたがたに平和があるように」と告げる者として遣わすといことです。平和を生み出す者として遣わすということです。それは、赦しによって生み出される平和です。自分が主イエスに赦されたように、人を赦す。そういう赦しの世界、赦しの関係があることを伝えていくのです。
 赦しというのは、けんかや仲違いによって壊れた関係を修復するために相手を赦すことばかりではありません。広い意味で、人を受け入れていくこと。自分と人の違いを受け入れていくことも“赦し”ではないでしょうか。
 遣わされて行くために、主イエスは「聖霊を受けなさい」と言われました。聖霊は目には見えません。けれども、木の枝がざわめくと、目には見えなくとも風が吹いたと分かるように、私たちが主イエスの愛と赦しを信じ、自分も愛と赦しによって、人との間に平和を生み出そうと志(こころざ)す。その時、私たちの内側に聖霊は働いている。聖霊の風が吹いていると分かります。
 私たちは礼拝の最後にいつも、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という主イエスの派遣の言葉によって日常生活へと送り出されます。もちろん、私たちは主イエスのような愛と赦しを持ち合わせていません。ちょっとしたことにこだわり、縛(しば)られ、人に対して心を閉ざしがちになります。けれども、聖霊に助けられて主イエスの愛と赦しによって心を開かれる人でありたい。“心配すんな”と主イエスに遣わされて、人に愛と赦しを届け、平和を生み出す人となりたい。主イエスは、遣わした私たちを常に、後ろから、大きな愛で見守っていてくださいます。

 

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