坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年6月28日 主日礼拝説教          「ウォーキング・バイブル」

聖書 使徒言行録1章1~11節

説教者 山岡創牧師

◆はしがき
1-1,2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著(あらわ)して、イエスが行い、また教え始めてから、お選(えら)びになった使徒(しと)たちに聖霊(せいれい)を通(とお)して指図(さしず)を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記(しる)しました。
◆約束の聖霊
1-3 イエスは苦難(くなん)を受けた後、御自分(ごじぶん)が生きていることを、数多くの証拠(しょうこ)をもって使徒たちに示(しめ)し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1-4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待(ま)ちなさい。
1-5 ヨハネは水で洗礼(せんれい)を授(さず)けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
◆イエス、天に上げられる
1-6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建(た)て直(なお)してくださるのは、この時ですか」と尋(たず)ねた。
1-7 イエスは言われた。「父が御自分の権威(けんい)をもってお定(さだ)めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1-8 あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1-9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆(おお)われて彼らの目から見えなくなった。
1-10 イエスが離(はな)れ去(さ)って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1-11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様(ありさま)で、またおいでになる。」

 

      「ウォーキング・バイブル」
 ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)の連続説教を終えて、今日から使徒言行録(しとげんこうろく)を読み始めます。その最初の言葉は、「テオフィロさま」(1節)です。テオフィロさまって、だれ?って話ですが、この人は、ローマ帝国で地位のある人だったようです。皇帝(こうてい)ドミティアーヌスの甥(おい)だったという説もあります。そんな高い地位の人に、この使徒言行録は献(ささ)げられた書物なのです。私たちが手にする本の前書きに、“この本を、敬愛する○○に献げる”なんて言葉が載っていることがありますが、使徒言行録は、テオフィロ閣下に献げられた本なのです。
 そして、使徒言行録は続編、第2巻です。「わたしは先に第一巻を著わして」(1節)とありますから、第1巻があるわけです。新約聖書の中に収録されています。さて、その第一巻は何でしょうか?ちなみに、その第一巻も“テオフィロさまに献げます”という書き出しで始まっています。これを知っていたら、なかなかの聖書通(せいしょつう)です。
 それは、ルカによる福音書です。著者は、第1巻のルカ福音書で、主イエスの教えと行いを記し、第2巻の使徒言行録で、使徒となった弟子たちの働きを記しているのです。
 テオフィロさまは、この1巻、2巻を読んで、“私もイエス様を信じよう”となったのでしょうか。ローマ帝国で地位のある政治家でしたから、難(むず)しかったかも知れません。けれども、クリスチャンとなったために、おじさんの皇帝に処刑(しょけい)されたという伝説もあるようです。だとしたら、すごいことです。人間の力を超えた、目に見えない神さまの力、すなわち“聖霊”の力がテオフィロさまに働(はたら)いた、としか考えられません。
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 さて、そのテオフィロさまに献(けん)じられた第2巻、使徒言行録ですが、先ほど、使徒となった弟子たちの働きが記された本だと言いました。復活した主イエスによって選ばれ、主の十字架と復活を、主の愛と平和を宣(の)べ伝えるために遣(つか)わされた弟子のことを「使徒」と言います。そのような使徒たち、ペトロが、ヨハネが、パウロが、主イエスの救いを宣べ伝え、それを信じた人々と共に教会を造(つく)り上げていく様子が、苦労が描かれているのが使徒言行録です。
 けれども、彼ら使徒たちが、使徒言行録の主役なのではありません。表向きは彼らが主役のように見えます。けれども、彼らの背後に、彼らを動かす“真打ち(しんうち)”がいます。もうお分かりでしょう。それは「聖霊」、聖霊なる神さまです。今日読んだ箇所だけでも、「聖霊」という言葉が何回出てきたでしょうか。使徒言行録は、主イエスに選ばれ、遣わされた人たちが、自分の力でがんばって、がんばって伝道し、教会を造ったという物語ではありません。聖霊が降(くだ)り、力を受けた弟子たちが、その力によって地の果てに至るまで、主イエスの十字架と復活、愛と平和の「証人」となり、用いられたという記録。彼らを通(とお)して、聖霊なる神さまが働き、私たち(人間)を救(すく)おうとした記録、そのために教会をお造りになったことを証しする本です。だから、これを読んで“ペトロさんやパウロさんって、すごい!、私には無理”と思ったら、この本が伝えようとしていることを読み違えたことになります。“あなたにも聖霊は働くのですよ。自分の力が重要なのではありません。聖霊が降り、力を受けると、あなたもイエス様の証人になるのです。イエス様の愛と平和を証(あか)しする人に変えられるのです。あなたも証人となって、イエス様のために働いてください”。使徒言行録の著者はきっと、私たちにこう言いたいのです。
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 では、聖霊はどのように降るのか、その力はどのようにしたら受けられるのでしょうか?聖書の中で、聖霊は“風”にたとえられることがあります。いわゆる風の性質なら、私たちも少しは知っています。風はどこからどこに向かって吹くのか?気圧の高い方から低い方へ吹きますね。私は、聖霊という風もそんな感じ、人間の内側の気圧が低い人の中に吹き込(こ)んでくるのだと思うのです。“おれは強いんだ。正しいんだ。偉いんだ。こんなにできるんだ!”なんて気圧の高い人の内側には、聖霊は吹き込んで来ない。“自分は弱い。自分のことばかり考えて、醜(みにく)い。大バカ者で、何もできない。小さな奴(やつ)だ”。そんなふうに、内なる気圧の低い人のところに吹いて来る。打ちひしがれ、悔(く)い改(あら)めた人のところに、頼(たよ)るものは神さましかいない、と思っている人のところに、聖霊という風は吹き込んで来て、主イエスの愛と平和による癒(いや)しを、慰(なぐさ)めを、勇気を、希望を悟(さと)らせるのです。私たちが、失敗したり、病気になったり、間違いに気づいたりして、自分の弱さ、醜さを感じている時にこそ、神の恵(めぐ)みを強く、深く感じるのはそのためです。
 ペトロ等、弟子たちもそうでした。イエス様を否定し、見捨てた情けない人間。目標を失った、虚(うつ)ろな絶望者。そうやって、自分は弱く、惨(みじ)めな、救(すく)いようのない大バカ者と思って、心の扉(とびら)に鍵をかけていた。そういう彼らのもとに、復活したイエス様はやって来て、「平和があるように」と言ってくれた。「聖霊を受けなさい」と励ましてくれた。赦(ゆる)し、立たせ、もう一度遣(つか)わしてくださった。彼らの心は燃えたのです。それはまさに、聖霊という風が彼らの内側に吹き込んで起こした救いの出来事にほかなりません。
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「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果(は)てに至(いた)るまで、私の証人(しょうにん)となる」(8節)
 「証人」って何だろう?と考えていた時、ふと、英語のウオーキング・ディクショナリーという言葉が思い浮かびました。日本語に訳したら“生き字引”、何でもよく知っている物知(ものし)りの人を、そのようにたとえて言います。そうだ、イエス様の証人とは、言わばウォーキング・バイブルだ。歩く聖書だ。歩くイエス様だ。そんなことを考えました。でも、少し違います。辞書のように、知っていることが重要なのではありません。イエス様の愛と平和を感じている。それによって救われている。生きている。それがウォーキング・バイブル、つまりクリスチャンの真骨頂(しんこっちょう)だと思います。そうやって生きていたら、私たちは自ずと「証人」になっている。周りの人はきっと、何かを感じ取ってくれています。そこにはきっと、また新たな風が吹きます。愛と平和が伝わります。

 

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