坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年7月5日 主日礼拝説教         「心を合わせて祈る」

聖書  使徒言行録1章12~14節
説教者 山岡創牧師

1:12 使徒(しと)たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日(あんそくび)にも歩くことが許される距離の所にある。
1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 

                                  「心を合わせて祈る」
 今日の聖書箇所に、主イエスの12弟子の名前が出てきました。ところで、皆さんは、12弟子の名前をすべて言うことができますか?8人ぐらいまでは言える。でも、あとの4人が‥‥‥なんていう人も少なからずいるかも知れません。では、質問を変えましょう。12人の中で、だれが好きですか?私はだれかな?‥‥トマスだな、と思いました。ヨハネによる福音書20章で、トマスが主イエスの愛に触れ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白するシーンが大好きだからです。
 ここに名前のある12弟子、正確には11人ですが、彼らは、復活した主イエスに遣(つか)わされた最初の使徒となりました。
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主イエスの弟子たち、特にイスカリオテのユダを除く12弟子たちは、復活した主イエスから「聖霊(せいれい)による洗礼」(5節)の約束を与えられ、主イエスの「証人」(8節)として遣わされました。彼らは、「オリーブ畑」(12節)と呼ばれる山で、天に昇って行かれる主イエスを見送り、エルサレムに戻って来ます。そして、泊まっていた家に戻って来て、いつも集まっていた2階の部屋に上がりました。
けれども、復活した主イエスに遣わされた使徒として、これからいったい何をすればよいのでしょう?何から手を付けたらよいのでしょう?彼らは、まだはっきりとは分かっていなかったのではないでしょうか。みんな、主イエスを見送った後、放心状態でボーッとしていたかも知れません。これからどうしたらよいのだろう?ふと、だれかが独り言のように漏らす。皆、ハッとして、真剣に考え始めたでしょう。その時、きっとだれかが言ったのです。一緒に祈ろう、と。
イエス様は聖霊を送ると約束してくださった。聖霊が降(くだ)ったら、私たちは、主の十字架と復活の証人、主の愛と平和の証人となる、と。ならば、約束の聖霊を求めて一緒に祈ろう。何をすべきかということも、きっと聖霊様が教えてくださるに違いない。そう信じて、彼らは「心を合わせて、熱心に」(14節)祈り始めたのだと思います。
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 「心を合わせて」という言葉は、心を一つにして、とも訳せるそうです。けれども、以前の弟子たちはそうではありませんでした。自分たちの中で、だれがいちばん偉いか?彼らはいつもそんなことを考えて、競い合っていたようです。ヤコブとヨハネなどは、みんなに隠れてこっそりと主イエスのもとに行き、イエス様が王様になる時には、私たちをイエス様に次ぐ大臣にしてください、と確約を取ろうとしました。後でそれを知った他の弟子たちは、何、抜け駆けしてやがるんだ!と、二人のことで憤慨したと書かれています。その様子を見かねて、主イエスは弟子たちを集めて言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい」(マルコ10章43節)。けれども、その教えが心にスーッと通った者が、この時いたとは思えません。「心を合わせて」どころか、弟子たちはいつも出世を考えて、競(きそ)い合っていたのです。
 そんな弟子たちが、どうして「心を合わせて」祈るようになったのでしょうか?主イエスに使徒として遣わされ、主の十字架と復活を宣(の)べ伝えるという共通の目的ができたからでしょうか?確かに、それもあると思います。共通の目的を持つと、人は協力するようになります。けれども、以前の弟子たちのままだったら、表面的には協力しているように見えて、心の中では、イエス様を宣べ伝えることにおいて、いちばんになってやると競い合っていたかも知れません。
 使徒たちが心を合わせて祈るようになったのは、共通の目的を持ったこと以上に、彼らが、自分の中身を知ったからだと思います。主イエスが反対者たちに捕まり、裁かれ、十字架で処刑された時、彼らは逃げ去りました。“違う”“知らない”と主イエスの弟子であることを否定しました。主イエスに従うことで出世を夢見、あなたのために命も捨てると、みんな勇ましく言っていたのに、その現実によって、弟子たちは、自分の身勝手さ、不甲斐(ふがい)無さ、弱さを突き付けられたのです。一言で言えば、自分の“罪”をはっきりと知ったのです。そういう人間同士が、宣べ伝えよ、と共通の目的を託(たく)された。自分の中身は当てにならない。どうしたらいいのか?そこにはもはや“祈り”以外にはなかったのです。心を合わせて、熱心に祈る以外、道はなかったのです。
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 既に天に召された藤木正三という牧師先生が、〈一体感〉という題で次のようなことを書いておられました。人は何によって一つになるのか?一つの目標を目指すことにおいてか?思想や信仰を同じくすることにおいてか?そういうことで一体感を味わう人もいる。しかし、人が本当の意味で一つになるのは、共通の事実を自分の内側に自覚する時ではないか。そして、おそらく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会うことはできないだろう。罪において一つ、人が一つになるのは、その時です。(『灰色の断想』111頁より)
 あぁ、本当にそうだなぁ、と思うのです。弟子たちもそうであったに違いありません。罪において一つ。そういう者同士が、主イエスに愛されて、主の愛と平和を宣べ伝えるという、大切な目的を託された。愛と平和に生きるように、と命じられた。そこには自ずと祈りが生まれました。心を合わせて祈る祈りが生まれました。
 罪を自覚した人間が、一緒に生きていこうと願う時、その生き方は、その生活は“祈り”になるのです。主イエスの愛を、平和を、聖霊の働きを求めて、心を合わせて祈る祈りとなるのです。そして、教会とはまさに、自分の罪を思い、罪において一つと自覚した者同士が、心を合わせて祈る場所です。心を一つにして神さまを礼拝する集まりです。2千年前の使徒たちと同じ姿が、同じ思いが、今ここにもあるのです。

 

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