坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年7月19日 主日礼拝説教         「思いを受け継ぐ」

聖書 使徒言行録1章15~26節
説教者 山岡創牧師

1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
1:16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊(せいれい)がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
1:19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
1:20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
1:21‐22 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(せんれい)のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
1:24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒(しと)としてのこの任務を継がせるためです。」
1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。 

 

                                       「思いを受け継ぐ」
 一人欠けている12弟子、12使徒の穴を埋め、その任務を受け継ぐ人を選ぶ。それが、「心を合わせて熱心に」(14節)祈る中で、彼らに示された主イエスの御心(みこころ)でした。
 直前の聖書箇所、13節に、天に昇って行く主イエスを見送って、エルサレムに戻って来た12弟子の名前が記されています。でも、数えてみると11人しかいない。一人欠けていることが分かります。それは、イスカリオテのユダが死んでしまったからです。
 直前の1章12~14節に、主イエスを見送った使徒たちが、「心を合わせて熱心に」祈り始めたことが記(しる)されています。これから何をすればよいのか、一緒に祈る中できっと、イエス様の御心が示されると信じたのです。そして、祈りにおいて示されたことが、一人欠けている使徒を選び、立てることでした。
 彼らは思い出したのでしょう。“そうだ、イエス様が生きている時、神さまの恵みを宣(の)べ伝えさせるために僕(ぼく)らを選んだ際、12人をお選びになったじゃないか。あれは、イスラエルが本来12部族だから、そのイスラエルの人々に宣べ伝えさせるために、12人の代表をお選びになったのだ。今、僕らはもう一度、使徒として立てられ、イエス様の十字架と復活を、愛と平和を宣教するように遣(つか)わされた。ならば、11人ではなく12人の使徒を立てて、イエス様のご委託(いたく)に応えることが必要なのではないだろうか。使徒たちは、一緒に祈りを合わせる中で、そのような思いへと導かれたのだと思われます。
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 けれども、大きな問題がありました。それは、イスカリオテのユダが主イエスを売り渡した人物だということです。ユダの思いは定かには分かりません。いずれにせよ、彼は、主イエスと弟子たちが過越(すぎこし)の祭りでエルサレムに滞在していた時、主イエスを殺そうと考えていた祭司長たちのもとに行き、銀貨30枚を受け取って主イエスを引き渡す約束をします。そして、最後の晩餐(ばんさん)の席上から出て行き、夜中にオリーブ山で祈っていた主イエスのもとに祭司長たちの手下を手引きして、主イエスを捕らえさせたのです。
 その後、意図的(いとてき)な裁判によって主イエスの死刑判決が下された時、ユダは自分がしたことを後悔し、神殿に銀貨30枚を投げ込み、首をつって死んでしまうのです。今お話したことは特に、マタイによる福音書(ふくいんしょ)26~27章に記されています。
 今日の聖書箇所では、ユダは手引をして得た金で土地を買いましたが、その土地は谷のような場所だったのでしょうか、そこに落ちて死んだと書かれているので、マタイによる福音書とは話が違います。あるいは、後悔して自ら飛び込んだのかも知れません。いずれにせよ、ユダが主イエスを裏切り、売り渡したのは本当なのでしょう。だから、そのような裏切り者の不吉(ふきつ)なポストに、代わりの人を選ぶのはどんなものかという思いが、皆の心をよぎったのではないでしょうか。だれも受け継ぎたいと思わないのではないか。むしろ欠番(けつばん)にしてしまった方がよいのではないか。ユダの裏切りは、使徒たちの中の最大の汚点(おてん)でもあります。だから、そういう汚点にはふたをして、忘れてしまいたいと思ったとしても不思議ではありません。
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 けれども、彼らはそうはしませんでした。イスカリオテのユダの代わりを選んだのです。それは、自分たちもまた、主イエスを見捨てて逃げ、“自分は弟子ではない”と主イエスとの関係を否定した過ちがあったからです。それは傷となり、痛いことだけれど、そこにふたをして誤魔化(ごまか)したら、主イエスの愛と平和の委託に応えられない。ユダの裏切りにふたをして、代わりの使徒を選ばないことは、自分自身の罪にもふたをして誤魔化すことだと使徒たちは考えたに違いありません。
 更にもう一つ、大切なことがあります。それは、そのような自分たちが、復活した主イエスによって赦(ゆる)され、愛されたという恵みです。自分の不甲斐無(ふがいな)さに打ちのめされ、絶望し、恐れていた弟子たちのもとに、復活した主イエスは何度も来てくださいました。そして、弟子たちを赦し、平和を宣言し、もう一度立ち上がらせ、使徒として遣わしてくださったのです。そのような主イエスの愛の視点から、ユダのことも見直した時に、ある意味で自分たち以上の裏切りを犯したユダでさえも主イエスは愛していた、赦していた。ユダもまた神さまに愛されている存在だ、その代表だと気づいたのです。“そうだ、イエス様は、最後の晩餐の席からユダが出ていく時も、すべてをご存じでいながら、行きなさいとユダに言われたではないか。祭司長たちの手下を手引きしてやって来たユダに、友よ、と呼びかけていたではないか。あぁ、イエス様はユダのすべてを赦し、愛しておられたのだ”。そのように気づいた弟子たちは、裏切りと罪の象徴としてユダのポストを欠番にするのではなく、神に愛され、赦された者の象徴として、自分たちの代表として、ユダを認め、ユダの任務を受け継ぐ人を選んだのです。選ばれた人はマティアですが、その名前は“神に恵まれた者”という意味だそうです。とても意味深い、この選びにふさわしい名前です。
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 このように御(み)言葉を黙想してきて、一つの疑問が解けました。それは、ユダに代わって跡を継ぐ12番目の使徒を、どうして復活した主イエスはご自分で選ばなかったのだろうか?という疑問です。それは、使徒たち自身が主イエスの愛の心に気づいて、ユダを認め、12番目の使徒を立てるかどうかをお試しになったのかも知れません。その思いに気づかないようでは、主イエスの愛と平和の真髄(しんずい)を宣べ伝えていくことなどできないからです。そして、使徒たちは主イエスのテストに及第しました。祈りの中で、主イエスの愛と平和に気づき、それを形に表したのです。主イエスの思いを受け継いだのです。
 イスカリオテのユダをどう見るか?それは、私たちにも問われている大切な課題です。ユダの行ったこと自体は認められません。けれども、自分はユダとは違う、ああはならない、と考えたら、私たちは、自分の内側を見つめておらず、自分も愛されている恵みに気づくことができないでしょう。人を赦し、愛することもできないでしょう。神の愛は、善い人、できる人にだけ注がれるのではなく、罪深い者にも豊かに注がれるのです。ユダは主イエスの愛する子、その恵みが心にストンと落ちる時、私たち自身もまた主イエスに愛されている子として自分を認めることができるのです。愛によって立つことができるのです。

 

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