坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年7月26日 主日礼拝説教        「熱く語る」

聖書 使徒言行録2章1~13節
説教者 山岡創牧師

◆聖霊が降る
2:1 五旬祭(ごじゅんさい)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊(せいれい)に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

                                                   「熱く語る」
 数日前に、I.I牧師からお電話をいただきました。2018年度、私たちの教会で1年間、神学生として実習をされた牧師です。地方には牧師のいない小さな教会が多いことを知り、何とかお役に立ちたいと、80歳で神学校に入学するという熱い志を持っていました。そして、福島県の本宮教会に今年4月に赴任(ふにん)されました。
 本宮教会は昨年の台風で川が氾濫(はんらん)し、床上浸水を被(こうむ)りました。“その修理、改築が6月に完成しました。6月半ばから礼拝と祈祷会(きとうかい)を守っています。教会員が20代の女性を誘って来て、その方が洗礼を受けたいと願っています。また、お子さんを二人連れたお母さんが来るようになって、教会学校も始めなければ‥‥”。そんな話を、熱く語ってくださいました。電話の目的は、受洗希望者の方と準備をするために、坂戸いずみ教会で使っていた『求道者伝道テキスト』を用いたいのだが、非売品なので、どうやって手に入れたら良いか、という相談でした。いやー、井田さん、相変わらず元気ハツラツだなあ、と思いましたが、その元気の根底には、神の恵み、主イエスの愛を伝えたいと願う感動と喜びがあるからだと感じました。
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 熱く語る。使徒たちは、聖霊によって熱く語る者となりました。それは、五旬祭の日に、使徒たちのもとにやって来た聖霊が、「炎のような舌」(3節)という面を持っていたからです。
 先日5月31日にペンテコステ礼拝を行いました。まだ緊急事態宣言前の、牧師と役員のみによる礼拝でした。ペンテコステとは、聖霊が使徒たちのもとにやって来たことを記念する礼拝ですが、その際、聖霊の風としての性質をお話させていただきました。今日は「炎」としての性質についてお話しようと思います。
 「炎のような舌」ということは、“熱く語る霊”ということだと想像します。それが一人ひとりの上にとどまり、「神の偉大なる業」(11節)を熱く語らせる力になったのだと思うのです。
 とは言え、何か得体の知れないエネルギーのようなものが使徒たちに取りついて、訳も分からないまま外国語をしゃべらせたということではないと思います。聖霊は、彼らの心を熱くする感動、喜びを生み出したのではないでしょうか。
 「わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24章32節)。復活した主イエスと出会った二人の弟子が語り合った言葉です。二人は、主イエスが十字架で処刑されてしまい、放心し、絶望し、エルサレムから田舎に帰ろうとしていました。その時、復活した主イエスが現れて、二人と一緒に歩き始めました。そして、暗い顔をしている二人に、聖書の御(み)言葉を通して、ご自分の十字架刑と復活の意味を解(と)き明かしてくださったのです。後になって二人は、それが主イエスだったと気づくのですが、その時、二人は語り合います。“あの方が歩きながら聖書の御言葉を語り聞かせてくださった時、ぼくたちの心は燃えていた。感動に震えていた。喜びを取り戻していた。あれは確かにイエス様だ!復活なさったのだ!”。彼らは熱い心を持って、エルサレムに戻りました。
そして、この二人と同じ感動と喜びが使徒たちの心に燃え上がったのではないでしょうか。彼らは主イエスの十字架を体験しました。主イエスを見捨てて逃げ去り、自分は弟子ではないと否定しました。彼らは、自己嫌悪に陥(おちい)り、絶望しました。けれども、その後で、復活した主イエスが来てくださり、彼らは赦(ゆる)しと愛と平和をいただきました。立ち上がらせていただきました。その十字架と復活の出来事を改めて思い返し、その愛に感動し、喜びに胸が震(ふる)えるということが、ペンテコステの日に、使徒たちの内側に起こった。そして、その感動と喜びをだれかに伝えようという思いが起こったということが重要です。それが言うなれば、天から来てくださった聖霊なる神の働きだったのではないでしょうか。
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 喪失(そうしつ)から回復へ、絶望から希望へ、不安から平安へ。そういう感動と喜びを再認識し、宣(の)べ伝えようという熱い思いが与えられた。それが聖霊の働きだと言ってよいでしょう。
そして、その熱い思いは、一人でも多くの人に伝えようという思いとなって、彼らが母国語だけではなく、外国語で、「神の偉大な業」を語るという現象となって現れたのでしょう。
 私たちも、聖書の御言葉を聴き、救いを求めて祈り、信じることによって、喪失から回復を、絶望から希望を、不安から平安を心に与えられます。その感動と喜びこそ、だれかに伝えようと思う原動力です。
 私たちは、自分が感動したことは、だれかに話したいと思います。例えば、本を読んで感動したら、だれかに話したくなります。また、おいしいお店を見つけて、その料理に感動したら、そのお店のことをだれかに教えたくなります。
 けれども、五旬祭の日の出来事はともかくとして、私たちは、習っていなければ外国語をしゃべれるわけではありません。それどころか、聖書の御言葉、主イエスの教えを、言葉でちゃんと話して伝えることが難しいと感じている人も少なくないでしょう。聖書って理解して、説明するのが難しい。教会に来て、礼拝を守って、聖書を読んで、お祈りして、イエス様を信じて、確かに喜びがある。感動がある。でも、それを、うまく言葉で表せない、聞かれても答えられない。私たちは、そんな思いをすることがあります。
 でも、“この本、よかったら読んでみてよ”“あのお店、一緒に行ってみようよ”、それでいいのではないでしょうか。“教会に、一緒に行ってみない”。教会に来る喜び、そこで信じる喜び、互いに愛し合う喜びがあれば、私たちはきっと、何かの折に、そのように伝えることができるのではないでしょうか。そして、教会に来れば、礼拝において、分かち合いにおいて、聖書の御言葉が語られています。神の恵みが伝えられることになります。それは、2千年前の五旬祭の日に、聖霊によって起こった出来事と同じだと言ってよいのではないでしょうか。

 

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