坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年9月6日 主日礼拝説教          「信仰によるいやし」

2020年9月6日 主日礼拝説教            
聖 書 使徒言行録3章11~16節
説教者 山岡 創牧師

ペトロ、神殿で説教する
3:11 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊(かいろう)」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。
3:12 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。
3:13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒(こば)みました。
3:14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦(ゆる)すように要求したのです。
3:15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

 

      「信仰によるいやし」
「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」     (16節)。
 エルサレム神殿にある美しい門のそばで物乞いをしていた、生まれながらに足の不自由な男を、ペトロとヨハネは手を取り、立ち上がらせました。彼は躍(おど)り上がって立ち、神さまを賛美しながら、二人と一緒に神殿の中に入って行きました。
その光景を見た人々は非常に驚きました。いつもは地べたに這(は)いつくばっていた男が、目の前で踊り歩いて神さまを賛美している。いったいなぜ、そのようなことが起こったのか?あまりの出来事に、人々は3人の周りに集まって来ました。
その人々に向かって、ペトロは語りかけます。「自分の力や信心によって」(12節)、この人を歩けるようにしたのではありません。そうではなくて、「イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)と。
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 ところで、11節から始まるペトロの説教の内容は、2章で、ペンテコステの日に語った彼の説教のダイジェスト版のようなものです。既に2章を説教した時に、その内容について、特に十字架と復活については語らせていただきましたので、今日ここでは触れません。
 今日の御言葉(みことば)を黙想しながら、私がふと気づいたのは、「信心」と「信仰」という二つの言葉が使われている、ということでした。信心と信仰って、同じじゃないの?でも、ここでは違うものとして使われているみたい。じゃあ、信心と信仰って、どう違うのだろう?そう思いました。
 そこで新約聖書が元々書かれたギリシア語の聖書を調べてみました。すると、違う言葉が使われていました。「信心」と訳されている言葉は本来、“敬虔(けいけん)”という意味の言葉です。それに対して「信仰」の方は元々“信仰”と訳される言葉でした。敬虔と信仰とは何が違うのでしょう?
 敬虔という言葉は、神さまを深く敬い、慎(つつ)んで仕える態度のことです。でも、それって誰が決めるのでしょう?少なくとも神さまは、人の態度を見て“この人は敬虔だ”なんて言いません。それは、人が他の人の信仰の態度を見て下す評価です。
 ユダヤ教ファリサイ派の人々が、“敬虔だ”という評価をとても欲しがりました。ユダヤ教には3つの善い行いと言われるものがあって、それは施(ほどこ)し、祈り、断食(だんじき)なのですが、これをよくする人ほど、敬虔だと思われました。それで、ファリサイ派の人々はこの3つの行いを、ユダヤ教の会堂や町の広場でしたがりました。なぜなら、会堂や広場には人がたくさんいて、その行いを見て、“この人はなんて敬虔な人なんだろう”と評価してくれるからです。だから、主イエスは言われました。そのようなことは、人に見られない隠れたところで行いなさい。神さまは隠れた行為をちゃんと見ていてくださるから、人の評価なんて求めるな、と。
 つまり、敬虔とは、その人にとって信仰の“勲章(くんしょう)”みたいなものです。自分の功績のしるしです。自分の力の記念碑(ひ)です。でも、そんな自分の勲章、自分の力が、あの人を癒(いや)したのではないことを、ペトロはよく知っています。
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 では、「信仰」とは何でしょうか?「イエスによる信仰が‥‥この人をいやした」のだとは言え、信仰そのものに力があるのではありません。力があるのは「イエスの名」です。私たち現代人には分かりにくいのですが、名前とは“その人そのもの”です。その場にその人がいなくても、その名を知っていれば、その人がいるのと同じ力や愛が発揮されるのです。簡単に言えば、“イエス”が強くしました。主イエスがその人を癒し、救いました、ということです。
 そして、信仰とは言わば“器”です。主イエスを入れる器、主イエスの力を、主イエスの愛を入れる“心の器”です。どんなに主イエスに、天地を創造するほどの力があり、すべてを結ぶほどの愛があっても、それを受け入れる器がなければ、主イエスが私たちの内側で働くことはありません。「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8章48節)と言われるのは、そういうことです。
 ペトロに力があるわけではありません。愛があるわけではありません。彼は、自分が主イエスを捨てた罪人であることを、よく知っています。けれども、そんな自分が赦された。受け入れられた。立ち上がり、もう一度、主イエスの弟子として歩かせていただいた。自分はその恵みを受け止めただけです。だから、ペトロは、自分の力や信心ではなく、主イエスの愛と力こそ、それを受け入れる信仰こそ、癒しの秘訣(ひけつ)、救いの秘訣であると語ったのです。
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 坂戸いずみ教会では、御言葉の分かち合いを、色んな機会によくいたします。その中で、ある方が、自分は明日のことを思い煩(わずら)わなくなった。明日がどのようになるとしても、それは神さまが愛を持って最善に計画してくださっていることだから、そのご計画にゆだねていればいい。そう信じて、今日を感謝して、喜んで、楽しんで生きている心境です。そのように証ししてくださいました。思い煩いの種が何もないわけではありません。大変な病を抱えている方です。それでも、ゆだねて、安心して生きられる。あきらめでも、開き直りでもありません。主イエスの力を、主イエスの愛を知っているのです。神さまの救いのご計画を、信仰という器に受け止めているのです。
 主イエスは、ご自分の衣(ころも)に触(さわ)り、救いの力を受け止めた女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ8章48節)と励(はげ)まして、送り出しました。ペトロも、同じ励ましを語っています。この声が魂(たましい)に響くなら、私たちは幸いです。

 

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