坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年9月13日 主日礼拝説教       「慰めの時が訪れる」

聖 書  使徒言行録3章17~21節
説教者 山岡 創牧師

3:17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
3:18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。
3:19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
3:20 こうして、主のもとから慰(なぐさ)めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣(つか)わしてくださるのです。
3:21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。

 

           「慰めの時が訪れる」
 生まれながらに足の不自由だった人を、ペトロは手を取って立ち上がらせました。エルサレム神殿でその光景を目撃した人々は、驚いて彼らの周りに集まって来ました。その人々に向かって、ペトロは語りかけます。私が「自分の力や信心によって」(12節)、この人を歩けるようにしたのではない。「イエスによる信仰が‥‥この人を完全にいやした」(16節)のだ、イエスこそ「命への導き手」(15節)であり、人の命を生かし、復活させてくださる方なのだ、と。
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 けれども、そういうお方を、あなたがたは十字架に架けて殺してしまった。その罪を、ペトロは人々に投げかけて、一方では、罪を「悔い改めて立ち帰(る)」(19節)ようにと呼びかけています。けれども、他方では、人々が「無知」(17節)のために神さまのご計画を知らずに犯した罪が、かえって「メシアの苦しみ」(18節)という神さまの救いのご計画を実現する“引き金”になった、とペトロは語っているのです。
 「メシアの苦しみ」は預言者の口を通して語られてきました。その預言は旧約聖書に記(しる)されていますが、特にイザヤ書53章で語られています。簡単に言えば、神さまのみ心を知る僕(しもべ)が、多くの人々の罪を負い、身代わりとなって死に、その命によって罪を償(つぐな)うという内容です。そして、その預言、つまり神さまのご計画のとおりに、主イエスが神の僕、神の子として十字架に架かり、その死によって人々の罪を償った。人の罪のために閉ざされていた命への道を、主イエスが開いてくださり、導いてくださったのです。
 神さまのご計画って、不思議です。まるで車のナビゲーション・システムみたいです。カー・ナビを知らないという方はほとんどいないと思いますが、昔は自動車道路地図の本を開いて、目的地までの道を調べていたのが、今では人工衛星とつながったシステムが目的地までの道を案内してくれます。現在地と目的地を打ち込めば、目的地までのルートを捜し、それを表示してくれるのです。しかも、音声付で。ルート案内を開始すると、“300m先、右方向です”とか、“この先、○○を先頭に500m渋滞(じゅうたい)です”とか言ってくれます。運転も楽になりました。
 とは言え、私たちはいつもナビの指示通りに走るとは限りません。知っている道だったら、今までの経験から、こっちの道の方が近い、あそこで曲った方が早い、などと自分でルートを選択して進むことがあります。そうやって一時、ナビの指示とは違う道を進んでも、最後にはその道に戻って来て、目的地にちゃんと着きます。
 神さまのご計画は、車のナビゲーション・システムみたいだ。先日、ある方が、御言葉(みことば)の分かち合いの時に、そう言われました。神さまのご計画には、人の救いという目的がある。そこに向かって、神さまは私たちを導かれる。カー・ナビの音声に当たるのが聖書のみ言葉です。御言葉に導かれて、私たちは人生の道を進みます。
けれども、私たちは、常に御言葉の指示に従うわけではありません。神さまが目的地に向かって引かれたルートを、私たちはレールの上を走るように進むわけではありません。私たちには意思があります。自由があり、自分の選択(せんたく)が許されています。自分で考え、選び、行動します。その道が、神さまのご計画どおりなのか、それとも右や左に逸(そ)れているのか、分からないことが多いです。けれども、神さまは、私たちの選択した行動を用いて、私たちの罪さえも、過ちや失敗でさえも活用して、命の救いという目的地へと導いてくださるでしょう。だから、聖書という“信仰のナビゲーション・システム”さえ閉じないで、主イエスの言葉を聴きながら進んでいれば、神さまは必ず、私たちを目的地へと導いてくださる。「命」へと導いてくださいます。
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 自分の言葉だけを聞く自己中心な生活から、主イエスの言葉を聴いて従う神中心の生活に生き方を方向転換する。それが「悔い改めて立ち帰る」(20節)ということです。そして、その道の先には「命」があります。命が生かされ、復活する救いがあります。
 そのように命が復活する時が「慰めの時」(20節)という言葉で語られています。「慰めの時」とは、天に昇られた主イエスが再びおいでになり、この世界の「万物を新しく」(21節)し、神の国を実現する時だと考えられています。つまり将来のことです。
けれども、私たちの信仰の人生において、既に「慰めの時」は起こっている。完全ではないけれど、この“慰めの味”を、神さまは今、私たちに味わわせてくださっていると信じて良いのではないでしょうか。
 カトリックのシスターだった渡辺和子さんが、ノートルダム清心女子大学の学長をしていた時、系列の中学校で子どもが自殺する事件が起こりました。次の週の渡辺さんの授業が命に関係する内容だったので、学生と一緒に自殺した中学生のために黙祷(もくとう)をしました。その授業の終わり、一人の学生が次のような感想メモを提出しました。
 最近、こんなCMがありました。いのちは大切だ。いのちを大切に。そんなこと何千何万回言われるより、“あなたが大切だ”、誰かにそう言ってもらえるだけで、生きてゆける。近頃、この言葉を実感しました。“私は大切だ。生きるだけの価値がある”そう思うだけで、私はどんどん丈夫になってゆきます。
(『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎、68頁)
 生きてゆける。そう思える命には喜びがあります。生きる喜びがないから、私たちは慰めを求めるのです。私たちは、自分の命に生きる値打ちを見失うことがあります。愛する人を失うことで見失い、死に至る病を患(わずら)うことで見失い、不本意な境遇(きょうぐう)に置かれることで見失い、何かに失敗することで見失い、人間関係につまずくことで見失う。無理もありません。私たちは弱い人間です。
 けれども、そんな私たちに“あなたが大切だ”と言ってくださる主イエスがいる。“いつもあなたと共にいる”と言ってくださる神がおられる。魂(たましい)に響くその声は私たちにとって“慰め”に違いありません。その声を、教会の交わりの中で聖書の御言葉を通して聴くことができたなら、私たちは生きてゆける。希望を抱き、愛を抱いて生きてゆける。その時、私たちの命は、「命の導き手」である主イエスによって生かされ、復活させられています。

 

 

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