坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年9月20日 主日礼拝説教       「主イエスに耳を傾ける」

聖 書  使徒言行録3章22~26節
説教者 山岡 創牧師

3:22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
3:23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
3:24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。
3:25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。
3:26 それで、神は御自分の僕(しもべ)を立て、まず、あなたがたのもとに遣(つか)わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」


            「主イエスに耳を傾ける」
 「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8章4節)。主イエスは、神の国の教えを話され、その最後に、このように言われたことが何度かあります。例えば、〈種を蒔(ま)く人のたとえ〉を語られた後です。このたとえ話は多くの方がご存じでしょう。種を蒔く人が畑に種を蒔いたけれど、畑際(はたけぎわ)の道に落ちた種は鳥が来て食べてしまった。石だらけのところに落ちた種は芽が出たけれど枯れてしまった。茨(いばら)の中に落ちた種は、茨にふさがれて伸びなかった。けれども、良い地に落ちた種は芽生え育って実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった、という話です。そして、最後に主イエスは言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。
 それは、御(み)言葉を受け入れて、その恵みをよく味わってごらん、という呼びかけでしょう。主イエスはあなたの心に、そっと御言葉の種を蒔いてゆきます。その御言葉を受け入れたなら、その時から神さまの「祝福を受ける」(25節)人生が始まるのです。
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 さて、今日の聖書箇所、ペトロの説教の中に、モーセ、サムエル、アブラハムという旧約聖書の重要人物が出て来ました。皆、神さまの“祝福計画”に用いられ、生かされた人々です。
 少しだけ神さまの救いのご計画の話をさせてください。「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)。天地を造られた神さまは、その世界を見て、絶賛されました。この世界は、私たち人間も含めて、神さまにとって“最高傑作(けっさく)”だったのです。
 ところが、エデンの園(その)での事件が起こりました。アダムとエヴァが、へびに誘惑されて、禁じられていた木の実を食べてしまったのです。事態を悟った二人は、それを隠そうとして画策(かくさく)し、しかし神さまに見つかるや、今度は、女のせいだ、いや、へびのせいだと責任転嫁(てんか)し、自分を正当化します。そのため神さまとの信頼関係は失われ、二人はエデンの園から追い出されてしまいます。祝福の場所にいられなくなってしまいます。
 ここから、罪の世界が、人の罪の歴史が始まります。けれども、神さまはもう一度、「極めて良かった」と心から喜べる世界を取り戻そうとして、人との信頼関係を回復する計画をお立てになります。そのために選ばれたのがアブラハムです。
 アブラハムは、「あなたを祝福する」(創世記12章2節)と神さまから約束され、そのために神さまの御言葉に聴き従うようにと命じられます。そのようにして、アブラハムが「祝福の源」(同2節)となり、彼の後に続く子孫も、御言葉に従って歩み、神さまとの信頼関係を回復し、祝福にあずかるようになる。エデンの園で人が生きていた時のように、極めて良い世界が回復する。神さまは、そういう計画をお立てになったのです。
 その後、アブラハムの子孫たちはエジプトに移住します。そこで奴隷として苦しめられ、ついにモーセに導かれてエジプトを脱出します。彼らは、荒野を旅して約束の地、祝福の地の手前までやって来ます。そして、あとはヨルダン川を渡るだけ!という所まで来た時、そこでモーセのリタイアが告げられます。人々は落胆(らくたん)します。けれども、モーセは彼らに“希望”を語りかけます。
「あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え」(22節)
 モーセの後継者としてヨシュアというリーダーが選ばれます。けれども、このモーセの言葉は、それだけで実現したのではありません。何百年も約束の言葉として受け継がれ、遂にペトロが、今日の聖書箇所で語るに至るのです。そして、この約束の預言者こそ、主イエス・キリストである、とペトロは語りかけているのです。
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 約束の預言者である主イエスの御言葉に聴き従う。ローマの信徒への手紙10章17節にも記されています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。私たちの信仰は、主の御言葉を聴くことから始まります。それによって神さまとの信頼が回復され、祝福の世界が生み出されます。
 ふと思い起こす物語があります。ルカ福音書10章の終りにある〈マルタとマリア〉の物語です。二人は主イエスのサポーターでした。ベタニアの二人の家に、主イエスと弟子たちが立ち寄った時のことです。マルタは、主イエスをもてなそうとして、せわしなく立ち働いていました。しかし、妹のマリアは、主の足もとに座り、語られる言葉に聞き入っていました。その様子に、遂にマルタはぶち切れます。“イエス様、妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何とも思いませんか?手伝うようにおっしゃってください!キーッ!”。マルタが主イエスに食ってかかるのも無理もありません。私たちだって似たような状況だったら腹を立て、不平の一つも口にするでしょう。
 けれども、主イエスは、「マルタ、マルタ」と、愛情を込めてその名を呼び、語りかけます。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10章41~42節)。主イエスが、必要なただ一つのことと、良い方と言われるのは、主イエスの御言葉に聴くことです。聴いて、心に受け入れ、従うことです。
 主の御言葉を聞き、受け入れると、何が起こるのでしょう?悔い改めが生まれます。御言葉の“鏡(かがみ)”に自分を映(うつ)すように自分を見つめ、自己主張し、正当化している自分の心に気づかされ、その罪を認め、懺悔(ざんげ)し、主の言葉を素直に聞くようになります。
使徒言行録の直前の箇所でも、19節で」「悔い改めて立ち帰りなさい」とペトロが語っています。マルタに求められていることも、そして根本的に、エデンの園で、アダムとエヴァに求められていることも、主の御言葉に聴き、悔い改めて立ち帰ること。“ごめんなさい”という素直な一言だったのではないでしょうか。

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 話は変わりますが、インドで、神の愛の修道者会を立ち上げ、スラムの路上で死んでゆく人々を看取(みと)る働きを始めたマザー・テレサは、どんなに忙しくても、朝4時半から1時間の黙想と祈りを、シスターたちと共に、欠かさなかったといいます。それは、愛の働きをなすためには、主イエスの御言葉を聴くことが、必要不可欠なただ一つのことだったからだと思います。
 私たちも毎日忙しく生きていることと思いますが、その生活の中で、主の言葉を聴き、受け入れ、祈る生活を心がけていきましょう。その生活の中にこそ、この世のご利益とは違う神の祝福があり、信頼があり、愛と平和があります。“あなたが大切だ”と語りかけられる“魂のエデン”があります。短い時間でいい。やってみたら祝福を実感します。

 

 

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