坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年9月27日 主日礼拝説教「聖霊と愛の名の下に」

聖 書  使徒言行録4章1~11節
説教者 山岡 創牧師

◆ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける
4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣(の)べ伝えているので、彼らはいらだち、
4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
4:5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威(けんい)によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問(じんもん)した。
4:8 そのとき、ペトロは聖霊(せいれい)に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅(すみ)の親石(おやいし)となった石』/です。

 

            「聖霊と愛の名の下に」
 “お前たち、ここで何をしているのか?!”そう言われて、ペトロとヨハネは捕らえられ、牢に入れられました。二人は神殿で、生まれつき足の不自由だった人を癒(いや)し、立ち上がらせました。その出来事に驚き、集まって来た人々に、二人は、主イエスの名が、そしてイエスを信じる信仰が、この人を癒したのだと話していただけです。
 それで、どうして捕まって牢屋にまで入れられなければならないのか、読んでいて不思議に思いました。でも、よくよく考えると、ペトロとヨハネのしていることは、一種のルール違反なのでしょう。それは、神殿の中で行われる礼拝(れいはい)や祈りの形式から逸脱(いつだつ)したルール違反であり、神殿の管理者や指導者の権限を無視した越権行為(えっけんこうい)ということなのです。彼らが二人を捕(とら)らえたのは一応、神殿のルールに則(のっと)ったことではあったのです。
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 翌日、ユダヤ人の最高法院(議会)が招集(しょうしゅう)されました。その議会の中央にペトロとヨハネを立たせて、議員たちは尋問します。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(7節)。そう言われて、ペトロとヨハネは思い出したかも知れません。イエス様もあの時、同じ尋問をされていたなぁ、と。
 それは主イエスと弟子たちが、過越(すぎこし)の祭りでエルサレム神殿に参拝した時のことでした。主イエスは、神殿を利用して金儲けをしている商売人たちに怒りを感じ、商売道具をひっくり返し、献(ささげ)げ物として売られていた動物たちを追い立てました。けれども、彼らの商売は、管理者から許可をもらい、神殿のルールに則ったことでした。管理者たちは主イエスを捕まえようとしましたが、主イエスを支持する民衆がいて、無理に捕(つか)まえることはできません。そこで後日(ごじつ)、境内(けいだい)で主イエスを尋問したのです。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(ルカ20章2節)。
 ペトロとヨハネはきっと、その時の出来事を思い出していたでしょう。あの時、イエス様は、彼らにこうお尋ねになった。“私の質問に答えてくれたら、私も何の権威なのか答えよう。ヨハネの洗礼(せんれい)は、神さまの啓示(けいじ)によって行われたことか、それともヨハネが勝手に行ったことか?”。あの時、指導者や管理者たちは“分からない”と答えた。分からなかったわけではない。彼らは損得を考えたのだ。神さまからの啓示だと答えれば、“では、なぜヨハネの洗礼を受けなかったか”と責められる。一方、ヨハネが勝手に、と言えば、ヨハネを神の預言者と信じている民衆に非難され、その信頼を失ってしまう。そう考えて、分からないと答えた。彼らは、他人の目は気にしても、自分の内に確かな信念はなかった。損得計算はあっても、神の御心(みこころ)を求める誠実な信仰はなかった。
 そんなことを思い出しながら、ペトロは「聖霊(せいれい)に満たされて」(8節)、尋問に答えます。自分の知恵で上手に答えようとするのではなく、祈って、ゆだねて、力を抜いて、素直に、まっすぐに、誠実な信仰によって答えようとしているのです。
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは‥‥‥イエス・キリストの名によるものです」(10節)。
 生まれつき足の不自由だったこの人が歩けるようになったのは、イエス・キリストの名によって命じたから、その癒しの力によって立ち上がり、歩けるようになったのです。私たちが神殿で癒しを行うのも、神の救いを語るのも、何をするのも、すべてイエス・キリストの名によって、イエス・キリストの権威によって行っているのです。ペトロは、聖霊に導かれ、自分自身の信仰によって、そのように答えました。
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 主イエスの“権威”って何でしょうか?私は、力の権威ではなく“愛の権威”だと思うのです。力によって人を抑(おさ)えつけ、嫌(いや)でも従わせるような権威ではなく、愛によって、人が心を動かされ、自ら喜んで従わずにはいられなくなるような権威だと思うのです。ペトロもそうです。自分のことばかり考えて、最後にはイエス様を“知らない”と見捨てた自分が、赦(ゆる)され、愛され、大切にされて、もう一度使徒(しと)として再出発させていただいた。その愛に心が震(ふる)え、主イエスを宣べ伝えずにはいられない、癒さずにはいられない、人を愛さずにはいられない。そんな思いで動いているのです。言い換えるなら、ペトロは“愛”の名の下に語り、動いているのです。
 “どうしてそんなことするの?”。私たちクリスチャンは、周(まわ)りの人から不思議がられることがあります。私たちの行動がこの世の価値観とは違うからです。でも、それでいい。私たちの行動の動機は常に“愛”に基づいていたい。愛の名の下に語り、動く私たちでありたいのです。いつもそうはいかなくても、愛の名の下(もと)に立ち帰りたいのです。
 愛の名の下に動く。大失敗の苦(にが)い経験があります。私が牧師1年目のことでした。私と同じ歳、20代の男性教会員が不慮(ふりょ)の事故で亡くなりました。そのご両親も教会員でした。嘆(なげ)き悲しむご両親に、しかし慰(なぐさ)めの機会が訪(おとず)れました。ご長女が他教会から坂戸いずみ教会に転入会したいと申し出られたのです。その申し出に、ご両親はとても喜んだに違いない。けれども、私は、東京都内に住んでいるから教会生活ができないだろう、それでは教会員になる意味がない、と考えて、転入会を断りました。自分としては教会のセオリー、ルールに則っているつもりでした。長男を失った痛みに加え、愛のない仕打ちを受けたご両親の嘆(なげ)き悲しみはいかばかりだったでしょうか。
 教会のルールって何でしょう?セオリーって何でしょう?教会規則でしょうか?文言でしょうか?教会生活の常識でしょう?そうではありません。“愛”です。相手の痛みや気持を思いやり、寄り添う愛です。聖霊によって働く愛です。それ以外にありません。文字によるルールやセオリーは愛の下に運用してこそ生きたものになります。大失敗をして、教会員を犠牲にして、申し訳なくも私はそのことを学びました。それが私の牧師としての再出発でした。
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 教会は、愛の名の下に営まれる交わりです。互いに愛し合う交わりです。その中心に主イエス・キリストが、聖霊の働きを通して、共におられます。十字架に架(か)かり、私たちを救うために命をお捨てになったほどの愛をお示しになります。「わたしがあなたがたを愛したように‥‥」(ヨハネ13章34節)と呼びかけます。
 だからこそ、主イエスは、教会という愛の交わりが造り上げられていくための「隅の親石」(11節)なのです。最も重要な石、愛によって全体を支える石なのです。そして、私たち一人一人も、愛の名の下に生きる時、教会を造り上げる大切な“愛の石”として用いられ、生かされるのです。愛の名の下に、共に教会を造り上げていきましょう。

 

 

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