坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年11月22日 主日礼拝説教      「称賛から信仰へ」

聖 書 使徒言行録5章12~16節
説教者 山岡 創牧師

◆使徒たち、多くの奇跡を行う
5:12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊(かいろう)に集まっていたが、
5:13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
5:14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
5:15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
5:16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

 

           「称賛から信仰へ」
今日の聖書個所には、ざっくり言えば、使徒(しと)と信者たち、つまり教会をめぐって、3種類の人々が描かれています。一つは、病気の癒(いや)しを求めてやって来る人々、もう一つは 、仲間に加わろうとしない人々、そして三つめは、使徒と信者たちを称賛し、主イエス・キリストを信じて仲間に加わる人々です。
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 「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」(12節)といいます。それは主(おも)に、病気を癒す働きであったと思われます。だから、多くの人々が病人を連れて来て、癒してもらいました。また、「ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」とさえ書かれています。
 目を閉じて、この光景を想像してみてください。皆さんは、どう感じますか?私は、ものすごく違和感があります。いやいや、ペトロ!お前いつからそんな偉そうな人間になったんだ?まるで、どこかの教祖様みたいじゃないか!弱くて、でも純真な、本当のお前はどこに行ったんだ?‥‥‥と言いたくなるのは、私だけでしょうか?
でも、ペトロに、ペトロらしくない「しるしと不思議な業(わざ)」を求めるような思いが、ともすれば私たちの中にも湧き起こります。
 病になれば不安です。体のどこかが痛くなれば、とても不自由です。だから、治りたいと願うのは自然な気持でしょう。けれども、その願いを“神さま”に期待するということが、私には“筋違い”に思われるのです。もし信じて祈れば病が治るというのなら、神さまほど利用価値のある“道具”は他にはありません。確かに、宗教は人の幸せを求めていくものではありますが、それは、その人の願いを常に叶えることで幸せにするのではありません。私たち人の願いではなく、神の願い、すなわち神さまのご計画は何かと尋ね求め、そのご計画の中で自分は生かされ、最善に導かれている。そう信じて、自分の生き方、心のあり方を整(ととの)えていくところに、宗教信仰による幸せの極意(ごくい)があります。
 願いが叶うことを、つまりご利益を求めて集まる人は、それが叶えば、あるいはそれが与えられなければ離れていくでしょう。使徒たちの周りに癒しを求めて集まって来た人々も、ほとんどがそうだったのではないでしょうか。
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 次に考えたいのは、仲間に加わろうとしない人々です。信仰が違う、合わないという理由もあるでしょう。けれども、直前の箇所で、アナニアとサフィラというクリスチャン夫婦が、嘘をついて献金をささげたことが発覚した際、突然死したことが描かれています。そのことを伝え聞いた人々は非常に恐れました。教会の仲間に加わって、もし清く、正しく生活しなかったら、罰が当たる。そう考えたら(それは誤解ですが)、確かに仲間に加わることなんて、恐ろしくてできません。
 ところで、現代の教会にも、似たような理由で教会に来ない人がたくさんおられます。それは、“教会とは、清く正しい人々の集まりだ。私なんか、とても入れない”と誤解している人が多いということです。皆さんの中にも、最初はそう思っていた、という人もおられるのではないでしょうか?でも、それって本来の教会とは全く違います。
 主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章13節)と言われ、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女、罪人(つみびと)と呼ばれる人々と交流しました。そこには、罪人を赦し、立ち直らせる神の愛がありました。主イエスを通して神の愛に触れた人は、心の傷を癒され、自信を取り戻し、隣人を愛する人へと変えられていきました。使徒たちも、主イエスを裏切り見捨てるという最も大きな罪を犯しながら、けれども復活した主に赦され、その愛により立ち直らせていただいたのです。そんな使徒たちが宣べ伝え、生み出した教会だからこそ、人の罪を赦し、弱さを受け入れ、隣人を愛し、互いに愛し合う交わりであったに違いない。教会とは本来、そういう場所です。
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 使徒と信者たちのことを称賛していた人々というのは、その点を称賛していたのではないでしょうか。定かには分かりませんが、私はそう信じたいのです。
 主イエスはかつて、弟子たちに、ただ一つの新しい掟を与えました。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)という掟でした。そして主イエスは、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)と教えました。
 まさに、使徒と信者たちが互いに愛し合う姿を見て、人々は称賛し、弟子と認めたのではないでしょうか。ファリサイ派のように、行いがすべての減点主義でなくていい。サドカイ派のように、現生ご利益主義の、形だけの信仰でもない。格好をつけなくていい。自分を取り繕(つくろ)わなくていい。自分の弱さのまま、でも良いところを生かして、自分らしく生きればいい。そして、そういう一人ひとりが受け入れられている。だからこそ称賛され、自分もその仲間に加わりたいと思い、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(14節)のではないでしょうか。
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 “本当に、そこに愛はあるんか?”。最近、本屋さんでふと目にした『売上を減らそう』という題名に魅かれ、その本を買って来て読みました。夫と二人で脱サラし、京都で、佰食屋(ひゃくしょくや)という1杯1,000円のステーキ丼を、百食限定で提供するお店を始めた中村朱美さんという方が、その経営の考え方を書いている本です。経営の考え方といっても、難しいことは何一つ書かれていません。夫が自宅で作ったステーキ丼を、“うわ、めっちゃおいしい!‥‥このステーキ丼を独り占めしてしまうのではもったいない”と感じたことがきっかけで、自分たちだったら、“家族みんなで揃って晩ごはんを食べられる”会社で働きたいと考えて、一日100食限定、それ以上の売上増を目指さず、早く売って早く帰れる会社を始めました。そんな会社に、中村さんは、社会的に優秀と言われる人材ではなく、“この人なら、他の人にやさしく、今いる人と協力できそう”という人を雇い、結果70歳過ぎの人や外国籍の人、難聴の人、シングル・マザー、極端にコミュニケーションが苦手な人などを雇い、ダイバーシティ(多様性)企業のモデルにさえなりました。この本を読んでいると、佰食屋さんって、教会じゃないの?とさえ思えてくるのです。“愛”を意識して経営している。社員の間に“愛”を感じるのです。
 そんな佰食屋が西日本を襲った三つの災害に見舞われました。一日50食しか売れない。3店舗中、1店舗の閉店、人員削減を決断せざるを得なくなりました。夫と二人で悩み抜き、そう決めて、でも発表の前日、中村さんは“「(みんなは今日の責任を)会社は明日の責任を」と言っておきながら、集客できなかった責任を従業員に押しつけるのか?本当に、そこに愛はあるんか?”と自問自答し、店舗閉鎖、人員削減をやめました。代わりに、自分たち二人の役員賞与を2年分返上し、材料と原価率を見直して、でも味は落とさずに、このピンチを乗り切りました。すごい人だなぁ、と本当に思います。
 私は、京都に旅行することがあったら、ぜひとも、この佰食屋に行ってみたい。味と値段もさることながら、この店の考え方、あり方を知ったからです。教会も同じではないでしょうか?そこに“愛”がある。そこに、互いに愛し合う交わりがあると知ったら、人はきっと行ってみたいと思うはずです。ぜひとも、そういう教会を目指しましょう。

 

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