坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年12月27日 主日礼拝説教      「行って、立ち、告げよ」

聖 書 使徒言行録5章17~26節

説教者 山岡 創 牧師

 

◇使徒たちに対する迫害
5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
5:18 使徒たちを捕らえて公(おおやけ)の牢(ろう)に入れた。
5:19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
5:20 「行って神殿の境内(けいだい)に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
5:21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
5:22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。
5:23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
5:24 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。
5:25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。
5:26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。

 

       「行って、立ち、告げよ」
 12月20日、そして24日、私たちはクリスマスを迎え、救い主イエス・キリストの誕生を喜び祝いました。
 ところで、クリスマスと言えば、天使がつきものです。天使は、マリアに、またヨセフに現れて、聖霊の力によってイエスを身ごもる、と告げます。また、天使はベツレヘムの郊外の野原で、羊飼いたちに救い主の誕生を告げ、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心(みこころ)に適(かな)う人にあれ」(ルカ2章14節)と神を賛美しました。
 天使‥‥私たちはそれを、人間とはかけ離れた、神々しい、天に属する存在と考えているでしょう。もちろん、それは間違いではありません。
 けれども、皆さんは、羽根の生えていない、頭にリングの付いていない天使がいると考えたことはありませんか?まぁ、姿形(すがたかたち)はともかくとして、天使とは天に属する存在ですが、同時に地上に属する存在でもあると私は考えています。
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 大祭司とサドカイ派の人々によって捕らえられ、牢に入れられた使徒たちを、「夜中に主の天使が現れ、彼らを外に連れ出し(た)」(19節)といいます。この天使、私は“人間”だと思っているのです。夢も信仰もない、と思われるかも知れません。けれども、民衆に称賛されていた使徒たちが、正当な理由もなく、「ねたみ」(18節)のために、民衆の目の前で捕えられ、牢に入れられたのです。そのことを快(こころよ)く思わず、彼らを牢から解放して、もっとイエス・キリストの救いを伝えてほしいと願う者が、彼らを称賛する民衆の中にいたとしても不思議ではありません。あるいは、大祭司とサドカイ派の一派の中にも、使徒たちを支持する人がいたかも知れません。そして、そういう人たちが夜中、秘かに使徒たちを牢から解放したのではないでしょうか。
 天使とは天のお使い、つまり神さまに遣わされた者です。彼らは、神さまの御心に適って行動しました。そして使徒たちは、思いがけず自分たちを解放してくれた、見ず知らずの彼らを、神さまが遣(つか)わしてくださったと信じたに違いありません。だから、彼らはまさに“天使”なのです。そして、信仰的に見るならば、自分のために神さまが遣わしてくださった“天使”と呼べる人が、私たちの周りにもいることに気づくでしょう。
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 “行って、神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げてください”。そのように求める、自分たちを送り出す彼らの言葉を、使徒たちは天使の言葉だと、すなわち神の言葉だと受け止めたことでしょう。
 使徒たちは、大祭司の官邸の地下にある牢を出ました。まだ夜中です。彼らは、「夜明けごろ境内に入って教え始めた」(21節)と書かれています。それまで、彼らは何をしていたのでしょうか?きっと祈っていたに違いありません。私の勝手な想像ですが、彼らは主イエスが祈っていたオリーブ山に行って祈ったかも知れません。いずれにしても彼らは心を一つにして共に祈った。神さまが自分たちに何を求めておられるのかを尋(たず)ね、聖霊なる神さまの助けを願って祈ったに違いない。その祈りの中で、自分がどこに行き、どこに立ち、何をすべきかが示されたのではないでしょうか。自分たちが捕らえられた神殿の境内に行って、そこに立ち、主の「命の言葉」を民衆に告げよ、と示されたのではないでしょうか。不安と恐れもあったかも知れません。けれども、そうするために必要な愛と勇気が、魂(たましい)の底から、聖霊の助けによって湧き上がってきたに違いありません。
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 「行って」という言葉に、私は、主イエスが語られた〈善いサマリア人のたとえ〉を連想します。サマリア人が、道に倒れていた犬猿(けんえん)の仲のユダヤ人を助ける話です。そのたとえの最後で、主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章37節)と、律法の専門家に命じました。自分の信仰、自分の価値観、自分の考えが正しいと思い込んでいる彼に、主イエスは、その殻を打ち破り、出て行って、隣人を愛しなさい。決めつけずに、あなたがその人の隣人になりなさい。そう主イエスは教えました。
 自分の正しさと決めつけによって閉ざしている自分の殻を、また恐れと不安によって閉ざされている自分の殻を打ち破って、そこから出て行く時に、自分の立つべき場所が分かります。出て行くのは、隣人がだれかを知るためです。隣人を愛するためです。立つべき場所とは、隣人を愛するための場所です。
 日本基督教団が発行している伝道冊子『こころの友』12月号に、カトリック大船教会信徒の、伊東和子さんという方が紹介されていました。伊東さんは、2003年に友人の勧(すす)めで、カトリック中央協議会HIV/AIDSデスク事務局で働き始めました。最初は、周りの人に、自分が何をしているのか言えなかったそうです。
 けれども、ある講演会での出来事が、伊東さんをハッとさせました。質疑応答の際、手を挙げた方が、自分はクリスチャンであり、HIV感染者だとカミングアウトした(告(つ)げた)のです。会場が静まり返る中で、講師を務(つと)めていたカトリックの司祭が、“どんな状況にあっても、あなたは神さまが愛する、神さまの子どもです”と伝えました。会場でそれを聞いていた医者が伊東さんに言いました。“宗教ってすごいね!”と。
 そのような経験もあって、伊東さんは、“神さまの手となり足となって、神さまの愛を伝えよう”と、湧き上がる思いに駆(か)られて、今日まで突き進んで来た、と言います。
 伊東さんはまさに、行って、立ち、告げたのだと思います。AIDSについてほとんど知識はありませんでしたが、未知のところに出て行って、HIV/AIDSを抱えて苦しんでいる人々を助ける場所に立ち、彼らに神の愛を告げている。“どんな状況にあっても、あなたは神さまが愛する、神さまの子どもです”と伝えている。
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 私たちも、大きなことはできないかも知れません。けれども、一人ひとりにきっと、行くべき道があります。立つべき場所があります。神の愛を伝えるべき人がいます。それは家庭かも知れません。身近な友人との関係かも知れません。あるいは、何らかの働きを示されるかも知れません。御言葉(みことば)と祈りによって、私たちはそれを教えられます。
 そしてその時、私たち自身が「天使」になります。白い羽根もなく、まばゆいリングもないけれど、神さまから誰かのところに遣わされ、神の愛を届ける天使になるのです。

 

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