坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年1月17日 主日礼拝説教         「差別から祝福へ」

聖 書 使徒言行録6章1~7節
説教者 山岡 創牧師

◆ステファノたち七人の選出
6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4 わたしたちは、祈りと御(み)言葉の奉仕に専念することにします。」
6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊(せいれい)に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6:6 使徒(しと)たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

 

                                     「差別から祝福へ」
 新年に入り、新型コロナ・ウィルス感染がますます拡大しています。その現状を重く見て、日本政府は1月7日、1都3県に再び緊急事態宣言を出し、13日には更に7府県が宣言対象地域に加えられました。
 今、重大な問題になっていることの一つは、医療現場の崩壊ということです。感染者が爆発的に増えてきたために、コロナ患者のための病床がパンク寸前の状態です。重症患者も急増し、その治療のための専用のICUも不足しています。このまま行くと、症状の重さによって患者に治療の優先順位を付け、選別するトリアージをしなければならなくなると専門家は見ています。その選別を医療関係者に強いるような事態になったら、肉体的な過労に加え、その精神的な負担はとてつもなく重いものになります。
 私たちも、できることをして、感染拡大の緩和に協力すると共に、天地の造り主なる神さまに、最善をなしてくださるようにと真剣な祈りをささげていきましょう。
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 ところで、エルサレム教会でも、一種のトリアージが起こっていたのかも知れません。それは、「日々の分配」(1節)をめぐってのトリアージでした。
 エルサレム教会では、信者が持ち物を共有し、土地や家を売っては代金を持ち寄り、献げ、「その金は必要に応じて、おのおのに分配された」(4章35節)と、4章の終りに記(しる)されています。現代の教会では考えられないことですが、それには一つの条件がありました。それは、天に昇られた救い主イエス・キリストが、すぐにも再びやって来て、この世を全く新しい神の国に造り変えてくださると、信者が皆、信じていたということです。そうなれば“この世の財産なんて無意味だ!持っていたって仕方がない。それよりも、献げて、共有して、お互いの日々の用に役立てよう。互いに助け合って、神の国を共に迎えようじゃないか!”と信者たちは考えたのです。
 けれども、主イエスはすぐには再臨(さいりん)せず、神の国はすぐには実現しませんでした。もちろん伝道は継続されています。信者の数は増えていきました。韓国に幾つかあるメガ・チャーチのように、信者が万を超える教会・交わりになっていったと思われます。
 イエスを救い主キリストと信じて救われる者が増える。それはとても喜ばしいことのはずです。けれども、「日々の分配」という点で考えれば、日数の経過と信者の増加によって、分配するための財源が不足気味になっていたのではないでしょうか。
 そのために、だれに優先して分配するか、選別が起こってしまったのかも知れません。その際、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめが軽んじられました。その選別、扱いは、決して公平ではなかったようです。エルサレム教会は、「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシア語を話すユダヤ人」(1節)で構成されていました。前者は、エルサレムとその周辺、ユダヤ地方に住みついているユダヤ人。後者は、戦争など何らかの理由で海外に離散し、改めて戻って来たか、祭りのためにエルサレム神殿に詣(もう)でたユダヤ人のことです。言わば“地元組”と“海外組”です。地元のユダヤ人にしてみれば、海外組は自分たちの知らない外国語で話すし、何となく、田舎から上京してきた“よそ者”のような見方は多少なりともあったでしょう。そして、分配の権限は、地元のユダヤ人が持っていたのかも知れません。それで、「苦情」が出るような、アン・フェアな分配が起きていたと想像するのも、決してあり得ないことではないでしょう。
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 この現状を、12人の使徒たちは重く見て、すぐに対処しました。それは、「食事の世話」(2節)をする7人の奉仕者を選んで、この仕事に当たらせる、ということでした。「弟子をすべて呼び集めて」(2節)というのですから、使徒たちだけで決めたのではありません。私たちの教会で言えば、“教会総会”のようなことが行われたのです。万を超す信者たちが集まったのでしょうか?いったいどこに?‥‥それはともかく、投票選挙が行われたとは思えません。イスカリオテのユダが欠けた12使徒の一人を選ぶ時、彼らは、二人の候補者を立て、祈り、神さまの御(み)心を問うためにくじを引いて、マティアを選びました(1章)。今回も、これと似た方法で、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」(3節)が候補者として立てられたのでしょう。そして、7人が選ばれました。
 この7人、皆、ギリシア語の名前です。と言うことは、7人ともギリシア語を話すユダヤ人から選ばれたと考えられます。驚きです。こういう場合、バランスを考えて、両者の側から半数ずつ選ぼうということになることがほとんどではないでしょうか。もちろん、そういう選び方が一概に悪いとは思いません。
 けれども、ギリシア語を話すユダヤ人だけでなく、ヘブライ語のユダヤ人たちも、この人選に同意したということです。この時の信者たちの心情を考えると、彼らは、教会でアン・フェアな分配、差別が起こったことを認め、深く悔い改めたに違いありません。そして、差別された側のユダヤ人の中から、敢えて7人すべてを選んだ。そうすれば、差別されたやもめたちが納得し、安心するからです。しかも、ヘブライ語を話すユダヤ人たちは、この7人を信頼して選んだのです。逆に自分たちが差別されるとは考えなかったのです。なぜなら、7人は“霊”と知恵に満ちた人だったからです。
 “霊”と知恵に満ちているということは、単に賢いとか、頭の回転が速いということではありません。それは、どんな人でもフェアに見ることができる。愛することができる。そういう信仰の誠実さを持っている。間違った時には悔い改める誠実さを持ち合わせている、ということでしょう。
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 この選びを思う時、教会の信者たちが、ちゃんと神さまと向き合っているなぁ、神さまの前に立って生きているなぁ、と感じます。もちろん、差別があったわけですから、常に100%そうだとは言えません。けれども、悔い改めがある。こんなふうに「苦情」(1節)を言われたり、非難されたりすれば、自己弁護をしたり、何か理由をつけて自分を正当化しようとしたとしても不思議ではありません。けれども、罪を認め、悔い改める心がある。そして、愛がある。弱い立場の人を配慮し、立てていく愛がある。
 その真実があるからこそ、「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えて」(7節)いったのに違いありません。使徒たちと対立していた祭司グループの側からも、この真実に魅(ひ)かれて、大勢が主イエス・キリストを信じるようになったのもうなずけます。悔い改めと愛。私たちも、この真実を忘れぬ教会でありたいと願います。

 

 

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