坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年1月24日 主日礼拝説教        「天使の顔」

聖 書 使徒言行録6章8~15節
説教者 山岡 創牧師


◆ステファノの逮捕
6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業(わざ)としるしを民衆の間で行っていた。
6:9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
6:10 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
6:11 そこで、彼らは人々を唆(そそのか)して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜(ぼうとく)する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
6:13 そして、偽証人(ぎしょうにん)を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法(りっぽう)をけなして、一向にやめようとしません。
6:14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
6:15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

            「天使の顔」
 「天使の顔」(15節)って、皆さん、どんな顔をイメージしますか?神々(こうごう)しい顔?優しさに満ちあふれた顔?幼子のように邪気のない顔?‥‥使徒言行録(しとげんこうろく)を書いたルカさんは、どんな思いで「天使の顔」という表現を使ったのでしょうか?
 インターネットで“天使の顔”について、何か載(の)っていないかと思い、検索してみました。余談ですが、“天使の”と文字を打ち込むと、“天使の○○”という言葉がズラリと出て来ます。例えば、“天使の誘惑”って、皆さん、何だと思いますか?‥‥これは、鹿児島県の酒造会社が作っている芋焼酎のネームなんですね。樽の中で8年間、長期熟成させた焼酎で、ある人は、一年に1本、特別な日に飲むお酒とコメントしていました。
 お酒と言えば、“天使の分け前”という言葉は、ご存じの方もおられるでしょう。ウイスキーやワインを樽の中で熟成させる過程で、水分やアルコールが蒸発して樽の中のお酒が減ります。それを不思議に思った職人が、天使がこっそり飲むのだと考えて、天使の分け前と呼ぶようになりました。他にも、髪の毛がリング状に輝く“天使の輪”や、天使のエビ、天使のパンケーキなど、色々ありました。
 そのような中に、“天使のような顔”でヒットする記事(ブログ)がありました。“癒しオーラ満載!天使のような人の特徴”と題して、その特徴とは、①笑顔が愛らしい、②容姿や醸(かも)し出す雰囲気が美しい、③魅力的な声の持ち主、④分け隔てなくやさしい、⑤ポジティブで明るい、⑥動物や子供に懐かれる、⑦疑うことを知らず、騙されやすい、と、7つ挙げられていました。なかなかユニークな考察です。聖書が語る「天使の顔」と重なる点があるかも知れない、とも思います。
 「天使の顔」。最高法院の被告人席に立たされたステファノの顔を見て、著者であるルカは何を思ったのでしょうか?
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 ステファノは、エルサレム教会で「日々の分配」(6章1節)のことで差別が起きた時、その問題を解決するために選ばれた7人の奉仕者の一人でした。直前の6章1~7節に、その経緯が記(しる)されています。
 けれども、ステファノは、分配の仕事に必要な事務能力と公平さを持ち合わせているだけではなく、「すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(8節)といいます。おそらく使徒たちと同じように病を癒(いや)す業であったと思われます。そして、彼には、主イエス・キリストの救いを語る、豊かな「知恵と“霊”」(10節)もありました。
 癒しの業を行い、イエス・キリストを宣べ伝えていたステファノに、キレネとアレクサンドリア(現在のエジプト)出身のユダヤ人が、またキリキア州とアジア州(現在のトルコ)出身のユダヤ人が議論をしかけました。彼らは、ユダヤに住む “地元組”ではなく、ローマ帝国領内のどこかに住んでいる“海外組”です。お祭りか何かの理由でエルサレムに戻って来ていたのです。彼らはなぜ、ステファノと議論しようと思ったのでしょうか?ステファノが語っていることが間違っていると思ったのかも知れません。ししか、それ以上に、その動機はねたみだったのではないかと思うのです。
5章で、ペトロら使徒たちを捕らえ、最高法院で裁こうとした大祭司やサドカイ派の人々も、その動機は「ねたみ」(5章18節)でした。多くの人々がイエスを救い主キリストと信じ、洗礼を受け、使徒たちの仲間に加わっていくからです。
 ステファノに議論をしかけたユダヤ人たちも、自分たちと同じ地域出身、同じ宗派出身の仲間たちが、イエス・キリストを信じて、宗派を変え、ペトロたちの仲間になってしまうのは、おもしろくなかった。ねたましかったのではないでしょうか。私たちだって、もし同じ教会の仲間たちが、隣りの教会や別の宗派の教会に、たくさん鞍替えしていったら、やはり快い気持にはなれないでしょう。
 それで、彼らはステファノに議論をしかけ、言い負かして、教会に加わった仲間たちの目を覚まさせ、彼らを取り戻そうとしたのかも知れません。けれども、彼が語る“霊”と知恵の言葉に歯が立ちませんでした。キリストを証しするステファノの“霊”と知恵は、7章に記されている説教に余すところなく表されています。
 こういう信仰の真理についての議論は、お互いに相容れず、感情的になることがしばしばあります。ステファノに議論をしかけた人々も、彼らが信奉しているモーセの律法と神殿とを、ステファノが冒涜したと受け取ったのでしょう。そのために腹を立てた彼らは、民衆、長老たち、律法学者たちをそそのかし、扇動し、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行き、偽証人まで立てて、有罪にしようとしたのです。
 自分の正義を主張する。それを押し通そうとする。そのために人数を集め、数の力で圧倒しようとする。偽証人まで立てて、相手を否定しようとする。手段を選ばない人々のその顔は、もしかしたら“悪魔の顔”のようであったかも知れません。
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 他方、そのようにして捕らえられ、最高法院の被告人席に立たされたステファノの顔は「さながら天使の顔のように見えた」(15節)といいます。彼はいったいどんな顔をしていたのでしょうか?
 先週の説教で、「日々の分配」の奉仕者に選ばれた7人が「知恵と“霊”」(3節)に満ちていることについて、次のようにお話しました。それは、単に賢いとか、頭の回転が速いということではなく、どんな人でもフェアに見ることができる。愛することができる。間違った時には悔い改める誠実さを持ち合わせている、ということだ、と。
 木曜日の聖書と祈りの会で、日曜日の礼拝説教をプリントで読み直し、分かち合いをしますが、ある方が、どんな人でもフェアに見ること、愛することはとても難しい。でも、自分と考えの合わない人、注意し、意見したくなるような人のために、まず祈ることにしている、祈りたくない相手でも祈る努力をしている、と話されました。その証(あか)しを聞いて、私もそのとおりだ、と深く感じ入りました。そのような相手と争わず、何とか放っておけるようにはなりましたが、そういう人のために祈っていない自分に気づかされました。その人を愛せない“自分”のために祈っていない自分に気づかされました。
 ステファノは、この裁判の最後に、集まっている人々から石を投げつけられて処刑され、殺されます。けれども、ステファノはその時、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(7章60節)と祈りました。そういう「知恵と“霊”」の人だったからこそ、ステファノの顔は「天使の顔のように見えた」のではないでしょうか。
 天使の顔のように見えるかは分かりませんが、私たちもキリストに愛された者として、人を愛し、相手のために祈り、聖霊(せいれい)と愛を祈り求める人でありたいと思います。

 

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