坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年2月14日 主日礼拝説教          「思い立ったら」

聖 書 使徒言行録7章17~29節

説教者 山岡 創 牧師

7:17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。
7:18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。
7:19 この王は、わたしたちの同胞を欺(あざむ)き、先祖を虐待(ぎゃくたい)して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。
7:20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適(かな)った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、
7:21 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。
7:22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。
7:23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。
7:24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。
7:25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
7:26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』
7:27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。
7:28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』
7:29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。

         「思い立ったら」
 “思い立ったら‥‥‥即実行”という格言があります。気持のよい響きがあります。本当にいい!、本当にやるべき!と思ったら、すぐに始めた方が効果的で、結果が出る。考えすぎて迷い、結局行動せずに、あの時やっておけばよかった、と後で後悔しないようにするために、といった話がインターネット上に載(の)っていました。
 最近、思い立ったら即実行したことがあったかな?と考えてみました。そうだ!昨年10月に自動車を買いました。乗っている車がだいぶ古くなっていたからです。妻と二人で相談し、インターネットで数カ月調べていましたが、ある時、“これだ!”と思う車を見つけました。けれども、見つけたのは金曜日の夜、お店は都内で土日は行けません。私の他に目を付けている人が6人います。それで、翌日土曜日の午前中に電話をして、ズームのアプリで車を映して見せてもらい、即、仮契約しました。そして、月曜日に伺(うかが)って本契約。どちらかと言えば慎重派の私が、ほとんど直感で即実行した、我ながら珍しいケースです。でも、結果、大当たりでした。
 もう一つは、週間執務表作り。頭の中で管理していた1週間の仕事を、週の初めにスケジュール表を作り、表記することを思い立ち、8月から始めました。1週間のサイクルの中で、その日にする仕事、その週間中にする仕事を表記して、実行した仕事には○を付けていきます。そうするようになってから、仕事効率が2倍ぐらいに上がったような感覚で、仕事を終わらせるのが早め早めなりました。即実行してよかったです。
 けれども、〈思い立ったら即行動、が失敗する理由〉なんてブログもありまして、行き当たりばったりで、事前に情報収集や現地調査等をせずに、直感だけを頼りに行動すると、失敗することが多い、とありました。
 思い立ったら、即実行。メリットとディメリットがあります。もちろん、失敗したくはありません。小さなことはともかく、人生の重要な決断のような場合、私たちクリスチャンは“思い立ったら”、どうしたらよいのでしょうか?今日の聖書個所に登場するエジプト脱出の指導者モーセは、思い立って、どうしたでしょうか?
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 さて、話はステファノの裁判の席で起こっています。海外からやって来たユダヤ人から教会に反対され、最高法院の被告人席に立たされたステファノは、ユダヤ人の救いの歴史を語り始めました。その証しは、モーセへと至ります。神さまと民族の間を取り持ち、神の掟(おきて)である十戒、律法を授けられ、民に取り次いだのがモーセです。
 ユダヤ人(イスラエル民族)は、ヤコブの12人の息子たちの代に、飢饉(ききん)のため、カナンからエジプトに移住しました。その後、増え広がるイスラエル民族を恐れ、エジプト王は、彼らを奴隷(どれい)におとしめます。モーセが生まれた時、エジプト王は、イスラエル人の人口増加を抑えるため、男の赤ちゃんは殺すようにと命令を下しました。母親はモーセを殺すに忍びず、籠(かご)に入れてナイル川に流します。それを拾ったのは、偶然か、それとも神のご計画か、何とエジプトの王女でした。彼女はその事実を隠(かく)し、モーセを自分の子どもとして育てます。〈プリンス・オブ・エジプト〉というディズニーのアニメ映画がありますが、だからモーセはエジプトのプリンスとして、貴族として育ったのです。
けれども、だれが知らせたのか、やがてモーセは、自分がイスラエル人だということを知るようになります。そして、同胞の苦しみに心を寄せるモーセは、「兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ち」(23節)、行動を起こすのです。
 けれども、モーセの行動は、イスラエルの同胞には理解されず、受け入れられませんでした。民族の指導者、救世主と認められるどころか、かえって殺人罪で訴えられそうになったモーセは、荒れ野のミディアンに逃亡するのです。
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 思い立って、行動し、しかし失敗したモーセ。彼には、エジプトの王女の息子という地位がありました。「すばらしい話や行いをする」(22節)知恵と力がありました。やがてモーセは自分の生まれと血筋を知ります。先祖アブラハムから受け継がれている祝福の約束も教えられたでしょう。そして、目の前では同朋が奴隷として苦しめられている。自分が立たずに、だれが立つのか!とモーセが思い立ったとしても、決して不思議ではありません。それは十分に義侠心のある、勇気のある、愛のある決断であり、行動です。
では、何が足りなかったのでしょう?それは、祈りではなかったかと私は思うのです。モーセは、自分の知恵で判断し、自分の決断で行動を起こしたのでしょう。自分に自信があったのかもしれません。けれども、そこには、神の御心を尋(たず)ね求める祈りがなかったのではないでしょうか。アブラハム以来、受け継がれてきた信仰による祈りを、モーセは受け継いでいなかったのです。そのために、神さまのゴー・サインを待たず、神のご計画に適わない行動を取ったために、彼の思い立ちは空しく終わったのでしょう。
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 自分が何かを思い立った時、即実行、行動するのではなく、まず神さまに祈る。神さまが自分に何を求めているか、祈りの中で聴いてみる。もちろん、そう簡単に神の声が聞こえ、答えが与えられるわけではありませんが、神さまの御心を模索し、考えてみることは、私たちクリスチャンが決断し、行動する上で、とても大切なことだと思います。
 福音書を読んで思うに、主イエスは行動の人でした。神の掟を破るかのように行動し、それを咎(とが)める律法学者やファリサイ派に反論し、彼らが蔑(さげす)む人々に寄り添い、神殿では相当過激な行動を取りました。けれども、それは主イエスご自身の思い立ちだけで取った行動ではありません。福音書を読むと、主イエスがしばしば、夜の間、祈っていたことが記されています。そして、十字架に架けられる前夜にも、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節、杯=十字架刑)とオリーブ山で祈りました。その結果、十字架への道を選ばれたのです。主イエスは祈りを通して常に、父なる神の御心を尋ね求めていました。そして、神の御心は“愛すること”にあると汲(く)み取って、常に行動されたと思います。
 この世界に、そして私たち一人一人の人生に、神のご計画があり、御心があると信じている私たちです。ならば、思い立ったら、まず祈りましょう。自分の力にうぬぼれず、神の御心が何かを謙虚に尋ね求めてから行動しましょう。そうすれば、自分の行動に確信が持てます。また、たとえ表面的に失敗したように見えても、祈って取った行動の結果には納得できますし、次へつながると信じることができます。“思い立ったら、まず祈り”、クリスチャンの格言はこれです。

 

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