坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年3月7日 受難節第3主日礼拝説教        「自分の命を救いたい」

聖 書  マタイによる福音書16章21~28節
説教者 山岡 創牧師

 

21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

            「自分の命を救いたい」


 昨日の朝、何気にテレビをつけましたら、日本テレビのズームイン・サタデーという番組で、〈東北をつなぐオンライン再会の旅〉というコーナーが放映されていました。アナウンサーの辻岡義堂さんとタレントの国木田かっぱさんが、東日本大震災前に取材で出会った人や、震災後に訪ねた人で、被災した人々と、ズームのアプリを使ってオンラインで再会する、という企画でした。例えば、岩手県宮古市にある老舗・田中菓子店の店主・田中和氣子さんとの再会。2012年には町の仮設商店街で営業を再開し、今は高台に小さな店を建てて営業しているとのことでした。また、奥松島で民宿を営んでいた山根さんご夫妻は、お店のすべてを失いましたが、その後、営業を再開。ズームでかっぱさんと再会した時には、当時、民宿を手伝っていた娘さんが結婚して、そのお孫さんとズームに映っていました。気仙沼市のすがとよ酒店の女将(おかみ)・菅原文子さんは、亡くなった夫が眠っていたその場所に、店を新築し、今では震災の語り部(べ)としても活動しているとのことでした。今週3月11日で、東日本大震災から10年の節目になります。
 私は、この番組を見ながら、今日の聖書の御言葉(みことば)を思い浮かべまして、あぁ、みんな、「自分の十字架を背負って」(24節)生きているんだなぁ、と感じました。
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  主イエスは、弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われました。それは、当時の迫害の状況からすれば、殉教(じゅんきょう)の覚悟をする、殉教する、ということでした。
 そういう状況の中で、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(25節)という主イエスの言葉は、不思議でもあり、また深い意味のある言葉です。自分の命を救いたいと、だれしも思います。だから当時、信仰を捨てて、迫害と処刑を免(まぬが)れるクリスチャンが少なからずいました。でも、そういう人は「命」を失う。逆に、信仰を捨てずに殉教する者は、命を得ると主イエスは言うのです。と言うことは、主イエスがここで語っている「命」というのは、いわゆる生命のこと、生物的な命のことではない、ということです。それは、自分を捨てなければ、自分の十字架を背負わなければ、得られない“命”ということになります。
 今は信教の自由が保障されていますから、クリスチャンが国家から迫害されることはありません。ただ、家族レベルでは、家族から信仰に反対されることはあり得ます。その場合は、家族からの反対の中で信仰をいかに守るかということが、その人が背負う十字架の一つになるでしょう。
 そういったことではない場合、私たちが「自分を捨て、自分の十字架を背負って」生きるとは、どういうことでしょうか?私は、東日本大震災で被災した人々の生きる姿、その気持の一端に触れながら、改めて思うのですが、それは、自分が置かれた人生の状況を引き受けて、背負って生きるということ。もう一言言えば、ラインホールド・ニーバーが言うように、“置かれた場所で咲く”ような生き方をすることだと思うのです。それはある意味で、自分を捨てなければできないことです。
 ペトロは、自分を捨てられませんでした。直前の箇所で、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と言い表し、主イエスから「あなたは幸いだ」(17節)と喜ばれたペトロです。ところがその後で、主イエスがご自分の十字架刑を弟子たちに打ち明け始めると、ペトロはそれを「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と否定しました。そのために、「サタン、引き下がれ」(23節)とお叱りを受けました。どうしてペトロは叱られたのでしょう?「自分」を捨てていないからです。「人間のことを思っている」(23節)からです。メシア、神の子とはかくあるべしと、権力の座に着き、栄華を極めるのだと、「苦しみを受けて殺され」るなんてあり得ないことだと、そういう自分の思いを、主イエスに押し付けようとした、自分の人生において押し通そうとしたからです。それは、自分を捨て、自分の十字架を背負って生きる生き方ではない、命を得る生き方ではないと主イエスに叱られたのです。
 私たちは、自分の人生に、“こうなってほしい”“こうあってほしい”という願いを持って生きています。それを持つこと自体は悪いことではありません。けれども、人生は自分の願い通りにはいかないことが少なからずあります。どうにも変えようのない現実に見舞われることがあります。その時、自分の願いを捨てなかったら、しがみついていたら、自分の人生を受け入れられず、ネガティブにしか見れなくなります。愚痴や不平ばかりがこぼれるようになります。否定的になり、絶望にうずくまってしまうかも知れません。それでは、自分の人生を、ポジティブに、希望を持って、感謝して、リスペクトして、愛して、生きられなくなってしまいます。自分の十字架を背負えなくなります。
 そういう自分の願い、あるいはこだわりと言うべきものを捨てるのです。いや、捨てたくない。なかなか捨てられない。捨てるのが辛い。そういう時があるのが私たちです。私たちはそんなに強くない。正論では生きられない。だからこそ、だれかの助けが、だれかの愛が、やさしさが必要だと思うのです。
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 最初に、〈東北をつなぐオンライン再会の旅〉のお話をしましたが、そこで登場した田中和氣子さんが、“失ったものは多いですけども、学んで得たものもありますよね”と話しておられました。学んで得たものが何なのか、そこでは触れられていませんでしたが、私は、それはいったい何だろうか?と考えました。そこで改めて、今日の聖書の御言葉に戻ってみると、自分の聖書の余白のところに、私はこんな書き込みをしていました。
 震災で何かを失う。でも、失って苦しい時、かえって人と分かち合うやさしさが生まれる。色々持っている時の方がかえってだめ。失い、そぎ落とされた生活の中で、人は命に本当に必要なものが見えてくる。愛と、一片の食べ物と水。それが命を得ることなのではないか。
 いつ書き込んだのか、日付は分かりません。以前に東日本大震災を報道する何かの番組を見た時に、あるいは現地に行った時に、そんなことをふと感じて書き込んだのかも知れません。山中さんが得たものも、もしかしたらそうかも知れないと思います。
 愛と優しさによって支え合う。祈り合い、助け合う。その時、私たちの心にはきっと勇気が湧いてきます。そして自分の人生を背負い、置かれたところを引き受けて、花を咲かせようとする生き方に、一歩踏み出せるのではないでしょうか。神の愛を信じる時、互いに愛し合う人の愛を信じる時、私たちはきっと「命」を得ています。「全世界」(26節)を手に入れるよりも、もっと大切なものを得ています。

 

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