坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年3月14日 受難節第4主日礼拝説教       「山の上と山の下」

聖 書 マタイによる福音書17章1~13節
説教者 山岡 創牧師

イエスの姿が変わる
1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆(おお)った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

                                              「山の上と山の下」
 先週の土日、妻と次女が岩手県に行って来ました。次女が、4月から岩手県の小学校に養護教諭として赴任(ふにん)するので、アパート探しをするためでした。駅を降り、開けた場所に出て、北を望むと、頂上に雪をかぶった、悠然とした山の姿が目に飛び込んで来たといいます。岩手山です。私は、写真で見せてもらったのですが、この辺りの秩父連山とは違って、独立峰でした。妻が岩手山にとても感動していましたが、確かに何ともたたずまいのある、存在感のある山です。岩手の人たちはきっと、この山を見ると、故郷に帰って来たと感じるのに違ない。岩手の歌人・石川啄木は、ふるさとの山に向かひて言うことなし。ふるさとの山はありがたきかな、と歌っています。
 主イエスは、3人の弟子を連れて、「高い山」(1節)に登ったと記されています。すると、弟子たちの目の前で、「イエスの姿が‥‥変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)のです。そして、旧約聖書を代表する人物、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていた、といいます。ペトロは、この栄光に心が舞い上がり、3人を祭ろうと思って社(やしろ)を建てようと提案しますが、神の声に恐れてひれ伏します。その後、弟子たちが顔を上げると、主イエスがいつもの姿で立っていました。
 いったい何が起こったのでしょう?ペトロら、弟子たちは何を見たのでしょうか?
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 例えば、山の麓(ふもと)にある街の姿は、街中にいて見る光景と、山に登って上から見る風景では、同じ街でも、当然のことながら全く違います。見る位置が違う、視点が違うからです。つまり、弟子たちにも、そういうことが起こったのではないでしょうか。山の上と山の下での、主イエスを見る視点の違い、変化です。
山の下で、主イエスは、ユダヤ人に関わり、病を癒(いや)し、父なる神の御心(みこころ)を伝えようと苦心しました。一同が山を下り、群衆のところに行くと、悪霊に取りつかれた息子を持つ父親が、その癒しを主イエスに願い出ました(17章14~20節)。主イエスは、どれだけの人を癒してきたか、数え切れません。そのような忙しさと苦心が、主イエスの山の下での現実でした。
 そして、そのような宣教の働きを、ユダヤ教の主流派であるファリサイ派や祭司長たちからは、律法(りっぽう)違反だ、神への冒涜(ぼうとく)だと非難され、命を狙われました。主イエスは、神の掟である律法に込められた父なる神の御心を求め続けました。そして、その真髄は、神に愛され、人を愛することにあると汲(く)み取って行動されました。けれども、その行動は、律法を文字通りに守るファリサイ派の人々の目には律法違反だと映りました。
 また、神殿で行われている形式的な礼拝を非難したために、祭司長たちから、神殿に対する冒涜だと見なされ、煙たがられ、ついには命を狙われるようになりました。その非難と殺意こそが、山の下で主イエスを取り巻く現実でした。
 そして、ご自分に対するそのような非難と殺意をひしひしと感じながら、主イエスは、直前の箇所、16章の終りで、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され(る)」(16章21節)と弟子たちに打ち明けました。今日の12節でも、「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」と語っておられます。ご自分が神の御心に適(かな)う道を進む限り、心の目が曇っている祭司長やファリサイ派から、苦しめられ、裁かれ、処刑される宿命を予想しておられたのです。その苦悩と葛藤(かっとう)こそ、山の下での主イエスのリアルでした。
 そこには、太陽のような輝きも、光のようなまばゆさも、何もありません。神さまの御心のままに人を愛する労苦と、人から裁かれる苦しみがあるだけです。
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 では、山の上に登った時、どうして、いつもと変わらぬ主イエスの姿に、神の子の栄光が、救いの光が見えたのでしょうか?その理由は、モーセとエリヤに関係していると思われます。モーセは、シナイ山で、神の掟である十戒、律法をユダヤ人に取り次いだ人物です。また、エリヤは旧約聖書を代表する預言者です。言わば、モーセは律法の象徴であり、エリヤは預言書の象徴、二人合わせて旧約聖書を象徴しているのです。
 つまり、聖書の御(み)言葉によって、そこに示されている神の御心、神のご計画から、主イエスの現実を見直してみた時、そこには全く違うものが見える、ということです。人生を外側から見るのではなく、内側から見るとでも言いましょうか。自分の人生の現実を、その外側から表面だけを見ていたら、苦しみや悲しみに飲み込まれてしまうかも知れません。けれども、聖書の御言葉は、そういう自分の人生の現実に、何が込められているか、どんな意味があり、良いものが隠されているかを、内側から見る“心の目”を与えてくれます。そういう心の目、聖書的な視点が、信じることによって私たちにも与えられるのです。聖書を読み、自分にも注がれている神の愛を、愛による神のご計画を信じる時、うまくいかない時でも、必ず神さまの愛に包まれていると信じて進むことができるようになる。祈って進むことができるようになる。ゆだねて進むことができるようになります。自分の人生を忍耐して、でも、ポジティブに、希望を持って、感謝して、リスペクトして、愛して、歩むことができるように変えられていきます。
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 雲の向こうは、いつも青空だ。アメリカ人の小説家であるルイーザ・メイ・オルコットが、4人姉妹とその両親が苦労しながら、信仰と愛を持って生きる生活を描いた『若草物語』の中に遺(のこ)した言葉です。原文は、There is always light behind the clouds./雲の向こうには常に光がある、です。
 同じような言葉が他にもあると思いますが(宇多田ヒカル、Time will tell 等)、雲の下にいれば、嵐にばかり心を奪われます。光が見えず、ネガティブになり、絶望に支配されてしまうかも知れません。けれども、雲の向こうには青空が広がっています。光が輝いています。そして、雲によって遮られていますが、雲の下と雲の上は続いているのです。見えないだけです。
 高い山に上ると、雲の上に出ることがあります。雲の下では雨が降っていても、そこには青空があり、光が見えます。自分の人生において苦しみや悲しみを背負っている私たちですが、山の上に登ると、すなわち聖書の御言葉から人生を見直す場所に行くと、その重荷の中に、救いの光が見えるのです。愛と希望を信じ、勇気を出して踏み出せるように変えられるのです。
 「高い山」とはどこでしょうか?それは、信仰の世界です。神さまの愛に包まれた霊的なワールドです。それは、御言葉と祈りによって、私たちの心の中に生まれます。

 

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