坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年3月21日 受難節第5主日礼拝説教        「命の使い方 ~ 愛し、仕える」

聖 書 マタイによる福音書20章20~28節
説教者 山岡 創牧師


20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。 28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 

   「命の使い方 ~ 愛し、仕える」
いのちってなんでしょう? そう、生きているということですね。では、生きているとは、どういうことだと思いますか? そして、いのちはどこにあると思いますか?
 日野原重明先生が、4年生の子どもたちに尋ねました。そう言って先生は、子どもたちを二人一組にして、聴診器を渡し、お互いの心臓の音を聞かせました。聞こえた、すごい!と子どもたちの歓声が上がります。みんながお互いの心臓の音を聞き終わると、先生は改めて尋ねます。いのちは、どこにあると思いますか?心臓!頭!からだ全部!‥‥いろんな意見が出てきます。子どもたちの答えを聞いた後で、日野原先生は話し始めます。
 いのちは、きみたちのもっている時間だといえますよ。‥‥
 心臓は大切ですが、いのちそのものではありません。いのちを動かすためのモーターです。心臓が止まったら、人間は死んでしまい、つかえる時間もなくなるのです。いまきみたちは、どのようにでもつかえる自分の時間をもっている。時間をつかうことはいのちをつかうことです。(『いのちのおはなし』講談社より)
 聖路加(せいるか)国際病院の医師であった日野原重明先生は、2017年に105歳で天に召されましたが、75歳を過ぎてから、母校を始め多くの小学校で、命についての授業をなさいました。その様子と内容がまとめられて、『いのちのおはなし』という絵本になりました。そのあとがきに、日野原先生は次のように書いています。
 人が生きていくうえで、もうひとつ大事なことがあります。それは「こころ」です。おたがいに手をさしのべあって、いっしょに生きていくということ。こころを育てるとは、そういうことです。自分以外のことのために、自分の時間をつかおうとすることです。
 きみたちは昨日から今日までの1日で、自分の時間をほかの人のために、どれぐらいつかいましたか?きみたちの時間を、きみたちは自分のためだけにつかっていませんか?‥‥‥(自分の)ほかのことのためにも時間をつかってください。
 自分の時間をどのように使うか、それがその人の生き方になります。日野原先生は、自分の時間を、他の人のために使うようにと子どもたちに語りかけています。そしてそれは、今日の聖書箇所で、主イエスが弟子たちに教えたことと通じていると思うのです。
                   *
 「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。ヤコブとヨハネの母が、このように主イエスに願い出ました。つまり、主イエスが神の王国をイスラエルに実現し、その王になった時、それに次ぐ地位を息子たちに与えてほしいと願ったのです。16章から、主イエスはご自分の苦しみと死を、そして復活を、何度も弟子たちに語って来ました。その緊迫感を、どうやら母親は、王国の実現が間近に迫っていると勘違いしたようです。
 母の願い、またヤコブとヨハネの願いは、二人が“偉くなる”ことでした。主イエスに次ぐ高い地位を得て、権力をふるい、民衆を支配することでした。それは二人だけの願いではありません。12弟子のすべてが願っていることでした。だから、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(24節)のです。
 そのような弟子たちの様子を見て、主イエスは一同を呼び寄せて諭(さと)されました。「‥あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くに人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(26~28節)
 主イエスは、弟子たちの“偉くなりたい”という願いを否定しませんでした。けれども、“偉い”ということの意味を、その生き方を全くひっくり返してお教えになったのです。偉くなるということは、皆に仕え、僕のように生きることだ、と。
 仕える、という言葉は、現代社会において、ほとんど聞かなくなりました。辞書で調べてみると、仕えるとは“目上の人のそばにいて、その人の用をする。その人のために働く”と出てきます。具体的には、奴隷が主人に仕える。僕(召使い)が雇い主に仕える。家来(けらい)が主君に仕える。聖職者のことを神仏に仕える、とも言いますし、ちょっと違う意味では、政治家や公務員が市民、国民に仕える、という言い方もします。英語で言えば、サービスserviceです。こちらの方がイメージが湧くかも知れません。
                 *
 けれども、そういった意味での“仕える”や、私たちが想像するサービスの現実とは、主イエスが教える“仕える生き方”には決定的に違う点があります。私たちが知っているサービスは、それに対してお金を払うから受けられるものです。つまり、無償ではなく、見返りや報酬という対価に対して与えられるものです。でも、そうではありません。
 また、仕えるということは、目上の人に、というように、上下関係によって成り立っているところがあります。でも、主イエスが教えているのは、そういうことではありません。仕えるとは、上下関係によってでも、対価によってでもなく、“愛”から生まれる行為であり、愛によって成り立つ関係です。相手のことを考え、思いやり、強(し)いられてするのではなく、自主的に、無償で自分の時間を相手のために使い、相手が喜ぶことを、相手の役に立つことをすることです。それは言い換えれば、“愛する”ということにほかなりません。
 そのモデルは、主イエス・キリストです。主が、多くの人のために、わたし(たち)のために、「身代金として自分の命を献げ」(28節)られた生き方です。神仏に仕える、という言い方があるように、私たちがキリストに仕える、命を献げるというのが本来の関係かも知れません。けれども、目上の存在が、“神”が、私たちの苦しみを思い、強いられもせず、無償で、自分の命を、私たちを救うために献げてくださったのです。私たちが、苦しみ悲しみに飲み込まれず、ポジティブに、希望を持って、感謝して、リスペクトして、愛して生きることができるようになるために、ご自分の命を使ってくださったのです。命を献げるほどの“愛”によって人を生かす。それこそが、主イエスの十字架と復活によって示されている神の救いにほかなりません。
                  *
 きみたちは‥‥自分の時間をほかの人のために、どれぐらいつかいましたか?日野原先生が問いかけていることは、主イエス・キリストが私たちに問いかけていることです。神の愛によって救われ、ポジティブに、希望を持って、感謝して、リスペクトして、愛して生きることができるようになった“わたし(たち)”であるならば‥‥‥強いられるわけではありません、でも、今度は自分の命を、時間を、だれかが、そういうふうに生きられるようにするために、少しでも使うことができたら、それはすてきな生き方だと思います。人を愛せるって喜びです。自分も幸せになります。そこに愛と平和が広がります。

 

インスタグラム   http://www.instagram.com/sakadoizumichurch524/

坂戸いずみ教会礼拝説教集等  https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/