坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年3月28日 受難節第6主日礼拝説教      「“なぜ”から賛美へ」

聖 書 マタイによる福音書27章45~56節
説教者 山岡 創牧師


45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦(あし)の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 

     「“なぜ”から賛美へ」
毎日見ていた空が変わった
涙を流して友が祈ってくれたあの頃 恐る恐る開いたマタイの福音書
あの時から空が変わった 空が私を見つめるようになった
(星野富弘、『鈴の鳴る道』より)
 星野富弘さんの詩です。知っている方も多いと思いますが、星野富弘さんは、群馬県の高校で体育の教師をしていました。けれども、クラブ活動の指導中、跳び箱を使った宙返りをしている時、着地に失敗して、首の骨を折ってしまった。そのため首から下の体が、手も足も全く動かなくなってしまう障がいを負うことになりました。星野さんが24歳の時です。後に星野さんは口に絵筆を加えて草花を描き、その絵に詩を添(そ)えるようになります。その絵と詩が本になり、また群馬県には星野富弘美術館もできました。
 けれども、入院してしばらくは、絶望し、何のために生きているのか、何を喜びとしたらよいのか見つけることができず、毎日口癖のように“ちくしょう”“ちくしょう”と自分の人生を呪っておられたようです。きっと星野さんは“なぜ”と思ったに違いない。なぜ自分の人生にこんなことが起こったのか?なぜ自分はこんな苦しみに遭(あ)わなければならないのか?苦悩し、葛藤(かっとう)したに違いありません。
 けれども、そんな星野さんがやがて自分の人生を受け入れるようになります。喜びを見つけ、感謝して生きるようになります。それは、聖書を通して神さまと出会ったからです。イエス・キリストと出会ったからです。イエス・キリストの教えと、人を愛する姿によって、自分も神さまに愛されていることを信じたからです。障がいを負ったままで神さまに愛されていると信じたからです。そのような自分の変化を、星野さんは、空が変わった、空が私を見つめるようになった、という詩で表しているのです。神さまに愛され、見守られている“自分”を見つけたのだと思います。
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 “なぜ”。主イエス・キリストも、ご自分の人生をそのように問われました。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)。
十字架の上で、そのように天に向かって、父である神に向かって大声で叫ばれたのです。
 主イエスは、ユダヤ人社会に疑問を感じておられました。特に、神さまがユダヤ人に授けてくださった律法(りっぽう)という掟を、心の支えとせず、人を評価し、裁く基準として、掟を守れない人々を非難し、差別し、社会から排除しようとする価値観、人間観に、大きな疑問を抱いておられました。神の掟の本当の心は何か?それは、どんな人も神さまに愛されていると信じ、感謝とリスペクトを持って神を愛し、人を愛することにある。そのように主イエスは汲(く)み取られました。そして、その信念を持って、主イエスは、差別されている人に寄り添い、あなたも神に愛されていると伝え、その人と食事を共にし、家に泊まり、また病や障がいを癒(いや)されたのです。徴税人や遊女、病や障がいを負った人々を愛されたのです。
 けれども、ユダヤ人社会の主流派の人たちから、“あいつは掟を破っている!”と非難され、しまいには“あいつは神に逆らっている!”と否定され、ついに十字架に架けられ、処刑されることになったのです。
 その十字架の上で、主イエスは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。あなたの心を汲み取り、あなたの愛を表わした私を、なぜお見捨てになるのですか?なぜ私がこんな目に遭わなければならないのですか?
 “なぜ”という叫びは、私たちが皆、多かれ少なかれ心に抱く思いです。受験に失敗した時、就職活動に敗れた時、仕事がうまくいかない時、地位や財産を失った時、重い病や障がいを負った時、愛する家族を亡くした時、人間関係が壊れた時‥‥思いがけない事が自分の人生に起こる時、私たちは“なぜ”と叫ばずにはいられなくなります。だから、主イエスの叫びは、私たち自身の叫びでもあります。
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 けれども、この主イエスの叫びは、旧約聖書・詩編22編の初めと同じ言葉です。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22編2節、852頁)。だから、主イエスは十字架の上で、この詩編22編を歌おうとしたのではないかと言われています。この詩編、前半は“なぜ”と叫ばずにはいられないような苦しみが書き連ねられています。けれども、後半になると、その苦しみの叫びが、賛美へと変わるのです。「わたしは兄弟たちに御名(みな)を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」(23節)、「主は貧しい人の苦しみを決して侮(あなど)らず、さげすまれません」(25節)。
 主イエスは、この詩編を歌いたかったのではないでしょうか。神さまへの賛美を、信頼を表したかったのではないでしょうか。確かに、“なぜ”と叫ばずにはいられない苦しみも本当なのです。でも、それだけで終わらない。十字架にかけられてなお、父なる神への信頼を失わず、賛美することができる。どうしてでしょう?神の愛を信じているからです。たとえ十字架に架けられても、父なる神に愛されていること、神が自分の味方であると信じているからです。
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 主イエスの十字架は、神の愛を表わすシンボルです。私たち一人ひとりが、自分の人生に置いて、神さまに愛されていること、神さまが味方になってくださることを語りかけています。けれども、目の前の現実、苦しみ悲しみに飲み込まれそうになる私たちは、どこに、この神の愛を見いだしたらよいのでしょうか?
 涙を流して友が祈ってくれたあの頃 恐る恐る開いたマタイの福音書
 苦しみと絶望の中で、星野富弘さんには、涙を流して祈ってくれる友がいました。その友の真実に心打たれ、聖書を開いた時、自分に注がれている神の愛を信じることができたのです。友の愛を通して、神の愛を信じ、自分の人生を受け入れることができたのだと思います。
 苦しみのない人生はありません。そして苦しみを感じる時、いちばん辛(つら)いのは、寄り添ってくれる人がだれもいないことではないでしょうか。自分を愛してくれる人、味方になってくれる人が一人でもいれば、私たちはきっと、苦しみの中で生きていける。その人の愛に支えられて聖書を読む時、私たちは神の愛を信じて生きていけるようになる。やがてその信仰が、人生の大きな土台となり、支えとなる。苦しみの中にあっても、神さまを賛美して生きていけるようになる。
その恵みを知っている私たちです。その恵みを証(あか)しするのが教会です。私(たち)は神さまに愛されている。その信仰をもって互いに祈り合い、愛し合い、神を賛美して生きていきましょう。

 

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