坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年4月4日 復活祭イースター礼拝説教     「あなたがたと共にいる」

聖 書 マタイによる福音書28章16~20節

説教者 山岡 創 牧師

 

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授(さず)かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

       「あなたがたと共にいる」
 苦しみは誰かと分け合うと半分になります。何かわからないけど、もやもやして苦しい。そういう思いをひとりで抱え込まずに、誰かに打ち明ける。そんな基本的なことが今、ともて大切です。(こころの友2021年4月号〈この人を訪ねて〉より)
 日本アライアンス教団千葉キリスト教会の牧師であり、また精神科医でもある山中正雄さんは、そのように語っています。新型コロナウイルスによって、この1年、人とのつながりが断たれ、外出もままならず、心にどんよりと重いものが積み重なった生活の中で、だれかと話をすること、心の中の思いを打ち明けることがどんなに大切か。
 私も知り合いから、こんな話を聞いたことがありました。その人は一人暮らしで、コロナ禍のために職場はリモートワークになり、教会も活動休止。外出も控えなければならず、本当に孤独を感じたとそうです。けれども、ズームを通して友人とつながり、分かち合い、それによって慰められたと言います。直接会えなくても、顔を合わせ、話ができる。今のような状況では、とてもありがたいことです。
 私たちは、だれかとつながっていたい。もちろん、一人になりたい時もありますが、ずっと独りの孤独は辛(つら)いでしょう。だれかと一緒にいたい。だれかと話をしたい。だれかと分かち合いたい。人はそのように、神さまに造られているのだと思います。
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 就職の関係で次女が岩手県へ、3月21日に転居しました。私たち夫婦も引っ越しの手伝いで同行しましたが、23日から一人暮らしになりました。だれも知り合いのいない土地で、1週間ほどで寂しさのピークが来たようです。
 私にも覚えがあります。と言っても、私の場合は牧師になるために、静岡県の教会で実習した際、教会員の方の家の離れで夏休みの1ヵ月半、一人で生活をした、というだけです。でも、私もそんなに長く自分の家を離れるのは初めてで、やはり1週間ほどで、胸に穴があいたような寂(さび)しさを感じました。これがホームシックかと思いました。
 次女も初めての一人暮らし、寂しさを感じたようです。そこで、近くの教会に電話をかけた。そして、平日でしたが教会に伺(うかが)う約束をし、牧師先生と話し、お祈りを共にしました。翌日の夜、祈祷会があるからいらっしゃいと誘われて、牧師を含め6人で御言葉と祈りを共にし、その後、ケーキ屋さんを営んでいるという信徒の方が持っていらしたお菓子をいただいて交わりを持ったといいます。その交わりの時間があって、次女はだいぶ落ち着いたようです。
 教会があるって、本当にありがたいことです。だれも知り合いのいない、初めての土地に行っても、教会に行けば受け入れられる。賛美と祈り、分かち合いを共にすることができる。信仰と愛のつながりができる。そこには、共にいてくれる人がおり、共にいてくださる神がおられます。
 復活した主イエスは弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と約束されましたが、自分は独りではなく、主イエスが共にいてくださるという恵みを、最もリアルに感じられる場所が教会だと思います。私たちが相手のことを思い、お互いに分かち合い、祈り合い、支え合う時、その愛の交わりの中に、わたしはそこに共にいる、と主イエスは語っておられるからです。
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 とは言え、主イエスが共にいるとは、もう一歩深めるとどういうことでしょうか。
 今日の聖書箇所に、気になる言葉があります。それは、「しかし、疑う者もいた」(17節)という言葉です。11人の弟子たちは、復活した主イエスに会い、ひれ伏しました。つまり、信仰をもって礼拝し、賛美したということです。
 けれども、疑う者もいた、というのです。しかも、原文で考えると11人の一部がと言うよりも、11人みんなが、というニュアンスだそうです。復活した主イエスが、これから全世界への伝道に遣(つか)わそうとする弟子たちが、どこかに疑いを抱えていたのです。
 けれども、主イエスはそのような弟子たちを、信仰失格だ、弟子失格だと否定しませんでした。完璧な弟子などいません。完璧な信仰なんて、私たち人間にはないのです。でも、主イエスはそういう彼らを遣わして、世の終わりまで共にいると約束してくださいました。むしろ、疑いという弱さ、欠点を持っているからこそ、共にいると約束してくださったに違いありません。裁かないこと。否定せずに受け入れること。非難せず、黙って話しを聞くこと。それが、共にいるということの真髄ではないでしょうか。
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 最近、私は、〈逃げるは恥だが、役に立つ〉というドラマにドはまりしました。2016年に放映された、新垣結衣(あらがき・ゆい)と星野源(ほしの・げん)を主人公とする大ヒット恋愛ドラマです。IT企業のサラリーマン・津崎平匡(つざき・ひらまさ)が雇用主として、森山みくりを主婦として雇用し、給料を支払う。そういう契約結婚という設定から、二人の関係が次第に進展していくドラマです。あり得ないような設定で、コメディー・タッチでもありますが、男と女が二人で共に生きていくということを考える時、ハッとさせられ、感動するシーンがたくさんあります。
 その第5話で、みくりが平匡に、こんな言葉を語るシーンがあります。
 平匡さんに何かあったら、私は、平匡さんの味方です。
みくりの友人が、夫の浮気が原因で、赤ちゃんを抱えて離婚します。けれども、親や周りの人たちは、子どもがいるのに何を考えているんだ、旦那の浮気ぐらい水に流せ、と彼女を非難します。私、間違ってるのかな、この子、不幸にしちゃうのかな、と涙ぐむ友人に、みくりは、やっさん、間違ってない。だれが何と言おうと、私はやっさんの味方だからね、と電話越しに伝えます。そのことを平匡に話すと、辛い時、味方だって言ってくれる人がいるだけで救われますよ、と平匡はこたえます。そして二人は、自分にとって味方はだれだろう?と話します。そして、みくりが平匡に語りかけたのが、先の言葉です。平匡さんに何かあったら、私は、平匡さんの味方です。
 わたしはあなたの味方です。共にいるということが、裁かず、否定せずに受け入れ、非難せずに聞くことであるならば、それは言い換えれば、あなたの味方だ、ということではないでしょうか。私たちにとって、これほどの救い、これほどの慰めは他にないと思います。
 主イエスは私たちにとって究極の味方です。最後まであなたの味方だ。決して裏切らない。見捨てない。そして、この救いを証しするのが教会です。遣わされた世界への伝道です。私たちの信仰と愛は完璧ではありません。人を傷つけ、悲しませてしまうことも、少なからずあるでしょう。けれども、そんな自分を悔い改めることを忘れず、主イエスに愛され、主イエスの愛を信じる者として、人を愛し、味方になり、互いに共にいることができたら、こんなに嬉しいことはありません。

 

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