聖 書 使徒言行録7章30~36節
説教者 山岡 創 牧師
7:30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。
7:31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。
7:32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。
7:33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。
7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣(つか)わそう。』
7:35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。
7:36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
「今、あなたを遣わそう」
タイミング、というものが私たちの人生にはあると思います。そして、タイミングは私たちの人生を大きく変える転機になることがあります。しかも、タイミングは自分の都合や願いだけで決まるものではありません。他人の思惑や行動、自分の抱えている問題や置かれている状況、社会の現状や周りの環境‥‥そういった要素が複合的に積み重なり、絡み合って、不思議としか言いようのないタイミングを生み出します。
そのようなタイミングの不思議さ、深さを、聖書も語っています。旧約聖書・コヘレトの言葉3章です(旧約聖書・新共同訳1036頁)。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、
破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、
石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、
保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、
戦いの時、平和の時」(コヘレトの言葉3章1~8節)。
そして、コヘレトは言います。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と(3章11節、口語訳、伝道の書)。普通に考えれば「美しい」とは言えない時が、この言葉の中に入り混じっています。こんな時、なければいいのに、と思う時が少なからず混じってます。けれども、不都合で最悪な時、マイナスでしかないような要素が、その後に続く“美しい時”の伏線となり、つながっていることがあります。もちろん、それは後になってみないと分からないのですが、「時」というものは、そのように積み重なり、つながって、人生の大切なタイミングをつくり出すことがあるのではないでしょうか。
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既に天に召されましたが、カトリックのシスターであり、岡山県にあるノートルダム清心女子大学の理事長をなさった渡辺和子さんは、ご自分のキリスト教との出会い、また修道院に入ったことを、次のように記しています。
渡辺さんは母親のことが嫌だったといいます。時は太平洋戦争中、かつての陸軍大将婦人がなりふり構わず戦争の裏方に協力する姿がうとましく、軽蔑(けいべつ)を感じることしかできなかった。そして、そのように思ってしまう自分ことも嫌で仕方がなかった。
そんな時、通っていたミッション・スクールで、大好きなシスターに自分の気持を打ち明けたところ、“和子さん、あなたは自分のことばかり考えているみたい”と言われ、聖書を渡された。キリスト教が大嫌いだったのに、不思議と聖書の内容がすなおに入って来たといいます。そして、6ヶ月間、信仰の勉強会(公教要理)をしていただいて、昭和20年4月、戦争の真っただ中で、渡辺和子さんは洗礼を受けました。
決してキリスト教の奥義を理解したからでもなく、キリスト教しかないという切羽詰まった思いからでもなく、何かに促(うなが)され、導かれるようにして受けた洗礼でした。
と渡辺さんは書いています。(『愛することは許されること』7頁、PHP)
それから約10年後、渡辺和子さんは、修道院に入ってシスターになります。大学を卒業後、アメリカ占領軍の家族を対象とした夜学(現在の上智大学)で働き、派手な生活をしていた渡辺さんに、周りの神父、シスター、そして家族、皆反対したといいます。それでも渡辺さんに入会を決心させたものは“イル・タッペル”という言葉でした。
27歳の時、3カ月の休暇を取って世界一周の船旅に出た。そして、パリのサン・モール修道会のペンションに宿泊していた時、若い、数人のフランス人女性がシスターとなり、自分を神に献げる誓願式に出席した。フランス語は十分にマスターしていなかったけれど、神父が繰り返し語っていたイル・タッペルという言葉だけが、なぜかはっきりと聞こえ、心に残った。それは、“主があなたを呼んでいる”という言葉でした。
今、なぜ自分が修道生活を送っているかというと、私もやはり「呼ばれた」のだとしか言えません。換言すれば、私が「選んだ」のではないということです。それは‥‥何か心の奥深いところにこの呼びかけがあって、私に他の道を選ばせなかったということです。(前掲書23頁)
と渡辺和子さんは語っています。それはまさに、神さまが備えたタイミングでした。
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モーセも主なる神さまに呼ばれたのです。エジプトで苦しめられている同胞・イスラエル民族を助けよ、と。40年前、モーセは自分で思い立って(23節)、それをしようとしました。けれども、その行動は「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」(35節)とイスラエルの同胞から拒(こば)まれ、発覚を恐れたモーセは逃亡しました。その時は、タイミングではなかったのです。
けれども、40年の時を経て、しかも自分の思い立ちではなく、神さまに呼ばれて、モーセは、一度は逃げ出したエジプトに戻って行きます。神さまは、「さあ、今あなたをエジプトに遣わそう」(34節)と言って、モーセを人生の大切な場所へと遣わすのです。
私たちの人生にもきっと“今”というタイミングがあります。それはたぶん、自分の願いや都合だけでは決まらないタイミングでしょう。もしかしたら、自分にとっては不都合でさえあるかも知れません。モーセにとっても、これはもろ手を上げて喜べるお召しではなかったようです。まさに神さまに呼ばれ、選ばれたタイミングでした。でも、後になるときっと、あぁ、あの時が私の人生の転機だったと納得できるのです。
私たちも、聖書の御言葉に聴き、祈る生活を続けていると、何らかの出来事を通して、人間関係を通して、本の中の言葉やメディアの情報等を通して、今、神さまに呼ばれていると感じることがあるのではないでしょうか。“じゃあ、いつするの?今でしょう”と神さまから後押しされることがあるのではないでしょうか。それはきっと、人生の大切な転機になります。
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神さまに遣わされる。もう一つ、大事なことがあります。それは“だれに”遣わされるか、です。モーセはエジプトに遣わされました。けれども、エジプトという国に、あるいは場所に遣わされたのではありません。エジプトで生活している同胞のもとに、そこで苦しんでいる人のもとに遣わされたのです。きっとモーセには、40年経っても顔を思い浮かべることのできる家族や友人がいたはずです。
私たちも、遣わされるのは場所ではありません。企業とか組織とか地域とか環境ではありません。そこで生きている人のもとに、です。そこで喜び、また苦しんでいる人々のもとに、です。その人を愛するために、私たちは遣わされる。その人と共にいるために、呼ばれ、遣わされる。だれかのために、は、同時に自分のために、でもあります。
神さまが備えてくださるタイミングが、私たちの人生にもきっとあります。その時を信じ、受け止めて、だれかを愛するために、私たちも遣わされていきましょう。
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