坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年5月2日 主日礼拝説教   「なぜ赦(ゆる)せるのか」

聖 書 使徒言行録7章54~60節
説教者 山岡 創

54人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 55ステファノは聖霊(せいれい)に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 56「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 57人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。 59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 60それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
「なぜ赦(ゆる)せるのか」
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。
 どうしてこのように思えるのでしょうか?相手は、自分のことを偽証して裁判にかけた人間です。感情に任せて、理不尽にも自分に石を投げつけ、処刑するような人々です。相手を憎み、ののしるか、でなければ恐怖し絶望するか、どちらかではないでしょうか。それなのに、なぜ「この罪を彼らに負わせないで」と、石を投げつけている相手のために、主イエスに執り成しを祈ることができるのでしょうか。考えられないことです。
 教会で皆さんと御言葉(みことば)の分かち合いをよくしますが、時々、こんな話題が出ることがあります。イエス様は、山の上の説教で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5章39節)と弟子たちに教えられた。でも、自分はとてもではないが、そんなマネはできない、と。
 正直な気持ちでしょう。理由もなく打たれたら、何するんだ、このやろう!とやり返したくなります。否定されたり、攻撃されたりしたら、たとえ相手に理由があったとしても反抗したくなります。私たちは、やられたら悔しくて、2倍にも3倍にもして相手に返し、思い知らせてやりたくなるような気持があります。実際にするかどうかはともかく、そういう気持になることが少なからずあるのではないでしょうか。まして、そんな相手を赦すなんて、祈りで執(と)り成すなんて、考えられないことです。
 神殿と律法をけなしたと言いがかりをつけられ、怒りに任せて処刑されたステファノ。彼はなぜ「この罪を彼らに負わせないで」と祈ることができたのでしょうか?
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 その理由はもちろん、主イエスにあります。この時、ステファノには、「神の栄光と神の右に立っておられるイエス(55節)が見えました。彼は、主イエスの裁判と十字架刑を思い起こしていたに違いありません。イエス様も、神の愛を受け止めて、真っすぐに語り、行動したのに、それを非難され、妬(ねた)まれ、偽証されて裁判にかけられた。そして、神を冒瀆(ぼうとく)したと濡れ衣を着せられ、十字架に架けられて処刑された。
 けれども、その十字架刑は何だったのか?神を冒涜した罪人の処刑死ではない。犬死にではない。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23章34節)と祈られた。主の十字架は、人の罪を身代わりとなって負い、ご自分の命を代償として、人の罪を償(つぐな)い、神の赦しをいただくための救いの業(わざ)だったのだ。そしてそれは、旧約聖書に示されている神さまの救いのご計画だった。主イエスは救いの御業(みわざ)を成し遂げて、復活させられ、天に昇り、今、神の栄光の中に立っておられるのだ。
 ステファノが天におられる主イエスを見た時、心に思ったのはきっと、このような救いの御業だったに違いありません。
 けれども、それだけでは決して、人を赦し、人を執り成すことはできないように思います。主イエスは神の子だから、人の罪を赦すことができたかも知れない。でも、だからと言って私たちは、自分にかけられた損害や痛みを赦すことなんて、「この罪を彼らに負わせないで」なんて祈ることは、そう簡単にはできないのではないでしょうか。
 十字架の意味を知っているだけではだめです。主の十字架によって罪を赦されたのはだれか?救われたのはだれか?それは“私”だ。私自身だ。この信仰無くして、私たちは、罪の執り成しを祈ることはできません。自分に対する罪を赦すことはできません。
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 主イエスが語られた〈仲間を赦さない家来〉のたとえ(マタイ18章)を思い起こします。王様は神さまを表わし、家来(けらい)は私たち、人を指しています。家来は王様に1万タラントンの借金をしました。この借金は人の罪を表わしているのですが、その額は現代の日本円に換算したら約6千億円です。神さまに対する人の罪はそれほど大きいのです。
 王様は借金返済を求めますが、家来は、待ってください、必ずお返しします、と哀願します。返せるはずがない。王様はこの家来を憐れに思い、借金を帳消しにしてやったというのです。考えられません。けれども、それが主イエスの十字架の表わす恵みです。
 家来は王宮を後にします。晴れ晴れとした気持だったでしょう。ところが、街で自分が百デナリオンを貸している友だちに出会います。家来は胸倉をつかんで、返せ!と詰め寄りました。待ってくれ、と頼む言葉も聞かず、彼は友だちを牢屋に入れます。
百デナリオン、日本円で百万円ぐらいです。決して少なくはありません。でも、家来は王様から6千億円を赦されたのです。それを思えば‥‥。彼はその恩を忘れた。棚に上げた。いや、その恩の大きさに気づいていなかったのかも知れません。
神さまに対する自分の罪と、人が自分にかける罪とは、もちろん単純に比較することはできないでしょう。けれども、自分の正当性だけを主張し、神に対する罪の自覚なしに、その罪が赦されているという信仰と感謝なくして、赦されている人間としての謙遜なくして、私たちはだれかを赦すことはできないのです。
 もう一つ、津田綾子さんとい方の話を思い起こします。彼女は、一人息子を強盗殺人で殺されました。津田さんは悲しみと怒りの日々を過ごしていました。教会に行くのも辛く、ある日、津田さんは牧師に、主の祈りの“私たちに罪を犯した者をゆるしましたから‥”と、どうしても祈れない、犯人をゆるせないと訴えました。牧師は黙って聞いていましたが、ポツリと“そうじゃろうな、辛いじゃろうな。たぶん神さまも、とても辛かったろうな。自分のただ一人の息子のイエスさまが、みんなの手にかかって十字架につけられて殺されてしまったんじゃからなあ”と言いました。半分独り言のように語られた牧師の言葉に、津田さんは、大きな衝撃を受けたといいます。十字架の意味は頭では分かっていた。でも、その神さまの痛みに初めて心が触れた。自分の罪のために死なれた主イエスの御業と神さまの痛みと恵みを思い、その犯人をゆるそうと思うようになったと言います。そして、犯人と手紙のやり取りをし、遂にその犯人を立ち直らせたのです。(『「NO」から「イエス」へ』キリスト新聞社、76頁~)
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 そんなこと、私には絶対にできない、と思われるかも知れません。でも、津田綾子さんだって、きっとそう思っていたに違いありません。けれども、その思いが変えられたのです。神の言葉によって、聖霊(せいれい)によって、信仰によって変えられてしまったのです。
 赦しって、ある意味で人の心の“奇跡”です。もちろん、津田さんのような経験をすることは、まずないでしょうし、そこまでしなければいけない、クリスチャン失格なんてことは全くありません。でも、覚えていてください。キリストの赦しを自分のこととして受け止める時、私たちの心にも“赦しの奇跡”が起こり得ます。ハッと何かに気づき、心が変えられていきます。赦せなかった相手を赦せるようになるかも知れない。その時、私たちは、愛のお陰で、すがすがしい、自由な心にならせていただけます。

 

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