坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年5月9日 主日礼拝説教   「迫害から伝道へ、苦難から恵みへ」

聖 書 使徒言行録8章1~8節
説教者 山岡 創牧師

1サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散って行った。 2しかし、信仰深い人々がステファノを葬(ほおむ)り、彼のことを思って大変悲しんだ。 3一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
4さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。 5フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 6群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。 7実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。 8町の人々は大変喜んだ。


「迫害から伝道へ、苦難から恵みへ」
 エルサレム教会に対して大迫害が起こりました。きっかけは、ステファノの処刑でした。彼はエルサレム教会の一員で、教会の中で日々の食糧配給を任されるような、実務能力に優れ、豊かな愛の持ち主だったのでしょう。そのステファノが、「この男は、この聖なる場所(神殿)と律法(りっぽう)をけなして」(6章13節)いるとユダヤ人に訴えられ、最高法院で裁判にかけられました。ユダヤ人は、神殿礼拝と律法を守ることをとても重んじていたからです。しかし、それは彼をねたんだ人間の偽証(ぎしょう)でした。
けれども、ステファノは、裁判の席で、神殿と律法とをないがしろにしているのは、むしろあなたがたではないか、とユダヤ人たちに反論します。そのように非難されたユダヤ人たちは激しく怒り、感情に任せてステファノを屋外に引きずり出し、寄ってたかって彼に石を投げつけ、石打ちの刑で処刑してしまったのです。処刑の理由は、後で、神を冒瀆(ぼうとく)した罪と事後判決されたのかも知れません。直前の7章に記されています。
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 さて、この事態にほくそ笑んだ男がいました。サウロという若者です。彼はユダヤ教徒の中でファリサイ派と呼ばれ、神の掟である律法を重んじ、厳しく守る宗派の一人でした。しかも、ファリサイ派の中でもトップ・エリートで、将来は優れた律法学者になることが期待されていました。彼は前々から、神殿を「強盗の巣」と非難し、律法をきっちり守らないイエス・キリストを“神の子”だ、“救い主”だと信じ、その教えを引き継いでいる使徒たち、教会に対して、快(こころよ)からぬ思いを抱いていたのだと思います。簡単に言えば、イエス・キリスト大嫌い、教会大嫌いです。
 けれども、神殿に参拝して礼拝し、多くの人々に洗礼を授け、病気や障がいを癒(いや)す働きをしてユダヤ民衆から支持されていたペトロら使徒たちに対して、最高法院も決定的に手を下すことはできず、懐柔策を取っていました。まして若者であるサウロが手を出せるはずもありません。
 そういうサウロにとって、ステファノの処刑はチャンスでした。ユダヤ民衆の教会に対する支持が弱まり、強烈な反対派が出てきたからです。教会には大きく分けて、国内組と海外組がいました。国内組はペトロら使徒たちを中心として、普段から神殿礼拝を守るユダヤ在住の人々。海外組は、祭りの時だけ海外からやって来る人々です。普段は神殿とは縁がありません。ステファノは海外組でした。
民衆から支持されている使徒たちには手を出すことはできない。でも、今なら、神殿礼拝を重んじず、律法に対する意識もゆるい海外組に対して非難と怒りが高まっており、彼らを弾圧することができる。そのようにして教会を分裂させ、弱体化する。サウロの狙いは、そういうことだったろうと思われます。
この機を逃さず、「サウロは家から家へ押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(3節)とあります。彼は、教会に反対するユダヤ人の先頭に立って、海外組のユダヤ人クリスチャンを弾圧したのでしょう。
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 このような教会大迫害の嵐の中、海外組のユダヤ人クリスチャンたちは、エルサレムから地方へと散って行きました。命からがら逃げ出した、ということです。けれども、彼らは転んでも、ただでは起きませんでした。逃げた先々で、地方のユダヤ人に、またサマリア人に、イエスを救い主キリストとして伝道して歩いたのです。
星野正興という牧師先生がいます。この方が、逃げたフィリポ、逃げた先で伝道のために用いられたフィリポのことを思うと、何だかホッとする。なぜなら、自分もいつも逃げているからだ、と語っておられます。そして先生は、
  聖書には色々な人物が出てくる。そのほとんどが逃げた人ではなかろうか。‥‥‥なさねばならないことから逃げ、正義を行うことから逃げ、神から逃げまくった人々だらけである。しかし、逃げた人々が逃げた所で神に用いられている。自分で勇んで行った所ではなく、逃げたところで何かをさせられていく。だから、逃げることは信仰のはじまりなんじゃないかと思う。(『風に吹かれて散らされて』教文館、62頁)
と書いています。
 私もホッとします。自分は受験戦争から逃げて、牧師になったのではないかと思っているからです。そして今も、あれこれと考えると、自分は逃げているのではないかと思うからです。それでも、逃げた先で神さまは、何かのために、だれかのために生かしてくださる。逃げることは信仰の始まり、本当にそうだなぁと感じます。自分の力に挫折(ざせつ)したその先で、神の恵みを実感するのです。次の御言葉を思い起こす人もいるでしょう。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
(コリントの信徒へ手紙(一)10章13節)
 この御言葉はきっと、こういう意味なのでしょう。逃げるは信仰の始まり。逃げた先で生かされる。生かしてくださる神がおられる。感謝なことです。
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 迫害から逃亡へ。けれども、それは無意味な逃亡ではありません。逃亡は逃げた先での伝道に生かされたのです。それまで、ユダヤ人の中でだけ信じられていたイエス・キリストの救いが、これをきっかけにして、海外へ、異邦人へ、全世界へと伝えられていくチャンスとなりました。人間的に見れば、大迫害、教会分裂という大ピンチを、神さまは、全世界へ向かって、より多くの、様々な人々への伝道という大チャンスに変え、生かしてくださったのです。
 『こころの友』5月号〈今月の決めゼリフ〉というコーナーで、早稲田教会の古賀博牧師がこんなことを書いていました。数年前、心不全のため1ヶ月半の入院を経験した。その後、一向に改善されない症状に悩まされ、心の中に繰り返し“なぜ”という問いが湧き上がって来た。そんな時、先生を支えたのは、H.S.クシュナーという人の“現状はこうなのだ。私は、これから何をすべきだろうか”という言葉だったといいます。クシュナーは14歳の息子を失いました。そして、“なぜ”という心の戦いの果てに、目を未来に向ける生き方へと転換した人だということです。
 もう一つ、古賀先生を励ましたのは、旧約聖書詩編37編23節だったといいます。
「主は人に一歩一歩を定め、御胸(みむね)に適う道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」。
この御言葉を信じて、少しでも前を向こうと祈り続けた、と古賀先生は書いています。
 私たちの人生にも、苦しみ、悲しみ、困難が起こります。逃げたくなること、逃げてしまうこともあるかも知れません。けれども、それらをただネガティブに、マイナスにだけ考えるのではなく、そこにきっと、神さまが何か意味を、目的を込めてくださっている、道を備えてくださっていると信じて進みたいと思うのです

 

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