坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年5月30日 主日礼拝説教「暗闇から光へ」

聖 書 使徒言行録9章1~9節
説教者 山岡 創牧師

1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛(しば)り上げ、エルサレムに連行するためであった。 3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 

         「暗闇から光へ」
 ドラゴン桜〉って、皆さん、ご存じでしょうか?TBSが日曜日の夜9時から放映しているドラマです。俳優の阿部寛が演じるカリスマ弁護士・桜木健二が、経営難に苦しむ私立高校の再建のために招かれ、東大専科という東大合格を目指す特別クラスを設けます。そして、偏差値は低いながらも、やる気があって、そのクラスを自ら志望した生徒たち数名と共に、東大合格を目指すというドラマです。
 さて、この学校に藤井遼という男子生徒がいます。元々、理系で学年トップという優秀な生徒で、周りのクラスメイト、教師、そして東大専科をバカにしていました。そこで、桜木は藤井に、2週間後、東大専科の4名とテストで競い、一人でもお前に負けたら東大専科を廃止する、という勝負を持ちかけます。そして2週間後、東大受験の過去問から出題されたテストで、東大専科の生徒たちは皆、藤井より良い点を取るのです。“こんなはずはない!”と自分の負けを認めようとしない藤井に対して、桜木は、その理由を説明し、“お前の曲った根性を直したければ、いつでも東大専科に来い!”と声をかけます。“だれが入るか!”と捨てゼリフを吐(は)く藤井でしたが、やがて東大専科に加わり、一緒に東大を目指して勉強することになるのです。
 今日の聖書箇所を黙想しながら、私は、このドラマ〈ドラゴン桜〉を思い出しまして、サウロって何だか藤井くんに似てるんじゃないかな、と感じました。この学校はユダヤ教、東大専科は教会、目指す東大は神の国といったところです。そして、バカにし、嫌っていた東大専科に藤井くんが入るように、サウロも教会に加わることになるのです。
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 サウロは、神の掟である律法を熱心に守るユダヤ教ファリサイ派でした。やがては優秀な律法学者になるだろうと将来を嘱望(しょくぼう)されたエリートだったようです。彼もまた、律法を守り行う者こそ神に認められると強烈な信念を持っていたに違いありません。
 だから、律法を守れない徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、罪人たちに神の救いを宣べ伝えるイエスという人物など認められない。安息日の掟を破り、律法の羽目を外し、最も大切なのは“愛”だ、などとうそぶいて行動しているイエスなんて認められない。そして、その教えを受け継いでいる教会を、律法を守るのではなく、主イエスの愛と赦(ゆる)しを信じる者が救われると宣べ伝えている教会を、サウロはどうしても許すことができなかったのでしょう。
 やがて教会の有力なクリスチャンであるステファノが訴えられ、処刑されたのをきっかけに、教会に対する大迫害が起こります。チャンス到来!とサウロは、その中心となってエルサレム教会を迫害し、多くのクリスチャンを捕らえ、処刑しました。そして今、その迫害の手をダマスコの教会とクリスチャンたちに伸ばそうとしました。けれども、そこに向かう途中で、サウロは「天からの光」によって目が見えなくなるのです。
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 実はサウロは、自分が処刑したステファノによって、大きく心を揺さぶられたのだと思うのです。許しがたきイエスとその弟子たち、その中心人物であるステファノを裁き、処刑した。表面的には“勝った!”と思ったでしょう。でも、何とも言えない後味の悪さ、敗北感が心に残った。それは、裁判の席でステファノが勇気を持って弁明したその言葉、また理不尽にも石打ちで処刑されている時に示した主イエスへの確かな信頼、怒り狂って石を投げる人々のために「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(7章60節)と祈った赦しによって、サウロの心は大きく揺さぶられたのではないでしょうか。
 果たして自分はこれで良いのだろうか?自分の行動は、自分の考えは、神の御心(みこころ)に適(かな)って正しいのだろうか?心の内に湧き起こったこの疑念を、しかし認めたくない。認めれば自分を否定することになるからです。そのためにサウロは疑念を消し去ろうとして、いよいよ荒れ狂っていたのかも知れません。
 けれども、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」(4節)、自分の内に湧き起こったこの疑念を、主イエスの声を、サウロは否定することができませんでした。何が正しいのか?何が神に喜ばれることなのか?自分はこのままでよいのか?サウロが見えなくなったものは、それだと思うのです。彼の目が見えなくなったという出来事は、彼のこのような動揺と内面の変化を象徴していると言ってよいでしょう。言い換えれば、サウロは、自分の外側ではなく、自分自身を見つめさせられた、ということでしょう。
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 ユダヤ人がその意識を、主イエスによって自分の内側へと向けさせられた事件がありました。一人の女性が姦通(かんつう)の現行犯で捕らえられ、主イエスの前に引きずり出された時のことです。この女は律法では石打ちの刑だが、あなたはどう思うか?人々は主イエスに迫りました。しばらく間を置いて、主イエスは言いました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」ヨハネ8章7節)。すると、人々は一人去り、二人去り、ついにはすべての人が立ち去ってしまった、というのです。主イエスの言葉によって人々は、自分の外側に、この女性とその姦通の行為に向けていた意識を、自分の内側へと向けさせられたのです。自分自身と向き合わさせられたのです。
 そんな主イエスが、この事件の直後に、生まれつき目の見えない人の目を開く癒(いや)しをなさいます。そして、主イエスを信じたこの人に、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」ヨハネ9章39節)とお語りになります。すると、それを聞いていたファリサイ派の人々が、「我々も見えないということか」と主イエスに食ってかかりました。彼らは、自分たちには神の御心が見えている。律法に照らして何が正しいか分かっている、と自負していたからです。安息日(あんそくび)の律法を破って癒しを行った主イエスに、少なからずイラついてもいたのでしょう。そんな彼らに、「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(9章41節、口語訳)と主イエスは言われたのです。
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 サウロも、自分は見えると自負していました。自分は正しいと思っていました。だから、どんな言動もゆるされる。人の言葉なんて聞く必要がない、イエスの言葉なんて聞く必要がない、と思っていました。自分の知恵で、自分の力で生きていけると思い上がり、周りを信用せず、信頼せずに生きていました。心を開かずに生きて来ました。けれども、そんな自分の生き方が揺らいだのです。自分が見えなくなったのです。
 ですが、サウロは暗闇に包まれて見えなくなったわけではありません。「天からの光」に照らされて見えなくなったのです。自動車を運転している時、真正面に朝日が昇って来ると、目がくらんで目の前が見えなくなることがあります。そんな感じではないでしょうか。光に楯突(たてつ)かず、目を横に向ければ、光を背にすれば、明るく照らされた周りがよく見えます。自分が見えます。そのためには、私たちもまず、“見える”と言い張る自分を見つめ直し、悔(く)い改めることこそ、目が開かれる第一歩です。そして目が開かれた時、私たちにも、「あなたのなすべきこと」(6節)が見えるようになるのです。

 

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