坂 戸 い ず み 教 会 礼 拝 説 教 集

<キリストの愛とともに歩もう>                          イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年6月6日 主日礼拝説教          「見えるようになるために」

 

 

聖 書 使徒言行録9章10~19節

説教者 山岡 創 牧師

9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14 ここでも、御名(みな)を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器(うつわ)である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣(つか)わしになったのです。」
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。

 

      「見えるようになるために」           
サウロは、エルサレム教会に対する迫害を先頭に立って実行した人物でした。彼はユダヤ教ファリサイ派。神の掟(おきて)である律法を熱心に、厳格に守ることで神に認められ、神の国に入ることができると固く信じていました。だから、律法を守るのではなく、主イエスの愛と赦(ゆる)しを信じる者が救われると宣(の)べ伝えている教会を、サウロはどうしても認めることができませんでした。奴らは神を冒涜している!そう決めつけて、教会を潰(つぶ)してしまいたかったのです。それがサウロの正義でした。
 そしてサウロは、迫害の手をダマスコの教会とクリスチャンたちに伸ばそうとします。ところが、そこへ向かう途中、「天からの光」(3節)に目がくらみ、彼は目が見えなくなってしまったのです。
                  *
 先週の礼拝説教で、サウロの目が見えなくなった出来事は、彼の動揺と内面の変化を象徴している。自分が処刑したステファノに激しく心を揺さぶられ、何が正しいのか、自分の正義が揺らぎ、分からなくなってしまったのだ、とお話しました。
 では、実際には目は見えなくはならなかったのかと言えば、そうではありません。新約聖書の中に収められている手紙の端々(はしばし)で、サウロは自分の目の病気を匂わせています。完全な失明、もしくは弱視のような状態になったと思われます。だから、今日の聖書箇所(せいしょかしょ)で「元どおり見えるようになった」(18節)とありますが、「見えるようになった」のは心の目であり、肉眼は元どおりにはならなかったと思うのです。
 目が見えなくなったという現実、それはサウロにとって、絶望以外の何ものでもありませんでした。と言うのは、それはサウロが“罪人(つみびと)”になったことを意味しているからです。つまり、サウロは、今まで一生懸命に律法を守り、正しい人間として神に認められる努力を続けてきたのに、失明によっていきなり神に呪われる罪人になり、それまで積み上げてきた成果と自信を一気に失ってしまったのです。
 どうして失明=罪人という考えになるのでしょう?例えば、もし私たちが突然失明したら、どんなことを考えるでしょうか?多くの人が“どうしてこういうことが起こったのか?”と考えるでしょう。そして、日本人の多くはこう考えます。“罰(ばち)が当たった”と。何か悪いことをしたことへの神の罰(ばつ)だと考えるのです。
 牧師という仕事柄、私は色んな方と面談し、訪問し、お話を伺います。不幸や苦しみの話も少なからず伺(うかが)います。そういう中に、“罰が当たった”と言われる方がいました。“イエス様は罰を当てたりはしませんよ”、柔んわりとお話をするのですが、その人の中では、キリスト教を信じていながらも不幸=罰という思考回路が染みついているのです。
 実は、罰という考え方、因果応報の思想は、全世界共通と言ってよいところがあります。ユダヤ教もそうでした。不幸が起こる。苦しみに見舞われる。それは、その人が律法を守らず、罪を犯した証拠だと考えるのです。だから、サウロの目が見えなくなったという現実は、サウロが罪人だから、神さまに呪(のろ)われて罰を当てられたのだということになります。どうして!?、自分はこんなにも熱心に律法を守って正しく生きて来たはずなのに!?‥‥サウロは葛藤したことでしょう。でも、目が見えないという現実は変えようがない。だから、出てくるのは、自分は罪人だという答えだけです。神に見捨てられ、呪われた罪人だという絶望だけです。そして、目が見えなくなったことを知れば、ファリサイ派の仲間たちも、サウロは罪人だと見なし、彼を軽蔑(けいべつ)するでしょう。
だから、サウロの人生はこの時、詰んだのです。死んだのです。律法を守って神に認められるという信仰においても、また社会的な評価の点でもサウロの人生は終わったのです。言わば、サウロは自分が信じて来たユダヤ教ファリサイ派の生き方に殺されたと言ってよいでしょう。それでも彼は葛藤し、神に訴え、暗闇の中で祈り続けていました。
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 けれども、サウロの暗闇に、確かな光が射します。新しい道が備えられ、閉ざされたかに見えた人生の扉が開かれるのです。それは、信仰によって全く新しい価値観を発見し、その人生観に立った生き方を始めることによってでした。それは原因ではなく、目的を見つける生き方です。
 先週の礼拝説教で、生まれつき目の見えない人を主イエスが癒(いや)した物語をお話しました。通りがかりに、弟子たちが主イエスに尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハネ9章2節)。罪を犯したから神の罰を受け、目が見えないと弟子たちは考えているのです。
 ところが、主イエスは、従来のユダヤ教の考え方とは全く違う捉(とら)え方をお示しになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9章3節)。“罪”という原因を究明して、その現実をネガティブに考えるのでははく、置かれている現実に込められている意味を見出し、そこからどのように生きていくことができるか、人生の目的をポジティブに考えてごらん、それが「神の業」だよ、と主イエスは私たちに教えているのです。
もちろん、過去を振り返り、吟味反省することが必要な場合もあるでしょう。けれども、それがネガティブな生き方につながったらマイナスでしかありません。また、私たちの苦しみや不幸には、その原因理由が分からない不条理な出来事も少なからずあります。原因を問い、後ろ向きに生きるよりも、神の恵みを模索し、そこからどのように生きるかを前向きに考える方が、明らかに幸せに生きることができるのです。
天から主イエスがサウロに語りかけた「起きて町に入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる」(使徒9章6節)との言葉は、まさに「神の業(わざ)がこの人に現れるためである」という主の言葉と同じ意味であり、原因ではなく、人生の目的を模索せよ、と語りかけているのです。目が見えないという現実は、罪の罰(ばつ)ではなく、そこからどのように生きていくかを、人生の目的を導くきっかけなのです
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 「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝える‥」(15節)。それが、目の見えなくなったサウロに示された「なすべきこと」であり、神の業でした。これからの人生の目的でした。そして、そのことをサウロに気づかせたのは、主イエスの御言葉(みことば)、御心を取り次いだアナニアというクリスチャンでした。
 挫折(ざせつ)や苦しみ、不幸の中では、前を向けないことがあります。なかなか新しい目的を見つけることができず、心の視界が開かれないまま暗いトンネルを歩き続けるような辛い時があります。そんな時、アナニアのような人がそばにいて寄り添ってくれれば、そっと手を引いてくれれば、私たちは暗闇(くらやみ)の中でも歩くことができる。そして、独りで歩くよりも早く暗闇を抜けることができるのではないでしょうか。
人生のトンネルを抜ければ、進むべき道が、なすべき目的がきっと見えます。神さまは決して罰を与えません。「なすべきこと」へと導かれる恵みを信じて進みましょう。

 

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