坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年6月13日 主日礼拝説教  「過去に捕らわれず、今を生きる」

聖 書 使徒言行録9章19後~31節

説教者 山岡 創 牧師

◆サウロ、ダマスコスで福音を告げ知らせる
9:19 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
9:20 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣(の)べ伝えた。
9:21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
9:22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
◆サウロ、命をねらう者たちの手から逃れる
9:23 かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、
9:24 この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。
9:25 そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠(かご)に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。
◆サウロ、エルサレム使徒たちと合う
9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
9:27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
9:28 それで、サウロはエルサレム使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
9:29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
9:30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
9:31 こうして、教会はユダヤガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏(おそ)れ、聖霊の慰(なぐさ)めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

 

「過去に捕らわれず、今を生きる」
 サウロは回心しました。クリスチャンを迫害し、教会を撲滅しようとしていたのに、回心してクリスチャンに変わったのです。それどころか、主イエスのことを「この人こそ神の子である」(20節)と宣べ伝える人になりました。やがてサウロは、海外に、異邦人に、主イエス・キリストの救いを宣べ伝える伝道者として活躍するようになります。
 やったね!サウロの回心、めでたし、めでたし!、チャンチャン!‥‥‥とは行きません。サウロの回心をめぐって、信仰と愛が問われる大きな問題が、サウロの周りの人々に、そしてサウロ自身に起こります。それは、独善の問題、先入観と偏見という問題、そして、そのような他者との関係性をどう生きるか、という課題です。
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 サウロがクリスチャンに回心した。それは、教会とクリスチャンに反対しているユダヤ人たち、取り分け教会を撲滅しようとして一緒に活動していた人々の目には“裏切り”と映りました。そこで彼らはサウロを殺そうと陰謀を企てます。
主イエスの処刑も、クリスチャンの迫害もそうですが、どうして発想が途端に殺人に飛躍するのか、理解に苦しむところです。フェアな立場に立って考えれば、宗教的な独善に過ぎないのですが、宗教はともすれば人を、他者を否定する独善的思考に、更には狂信的な“あれか、これか”に陥らせる怖さがあります。
 現代社会における宗教も一歩間違えば狂信的になります。また、そこまででなくても、例えば一度入信した人がやめると、その人に街中で会っても、無視して挨拶もしない、というような宗教があるといいます。“裏切り者”って感じなのでしょうね。
 もちろん、教会でそのようなことがあってはなりません。キリストの“愛”にもとります。信教の自由の下で、教会はもちろん出入り自由です。信仰を強制されることも、脅迫されることもありません。洗礼を受けて教会員になれば、教会の活動に責任を持って関わる立場になりますが、それでも離れていく人だっています。寂しくは感じますが、悪くは考えない。その人の事情も気持もあります。その人を尊重し、その人の幸せのために祈る。もしまた機会がったら、その人が戻って来れるように祈る。街中で会ったら、ごく普通に挨拶し、会話もする。そういう“愛”のあるクリスチャンでいきましょう。
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 さて、サウロは、ユダヤ人の陰謀から逃れ、エルサレムに着き、弟子の仲間に加わろう」(26節)としました。けれども、「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(26節)といいます。にわかに信じられるはずがありません。ついこの前までは、ステファノを処刑し、教会を迫害していた中心人物です。中には身内や親しい友人をサウロに処刑されたクリスチャンもいたはずです。恨(うら)み、憎(にく)んでいたとしても不思議ではない。信仰の仲間だなんて、とてもじゃないが思えない。あいつは“教会の迫害者”“殺人者”だ。どうしたってそういう先入観で見、レッテルを貼ってしまうのが人の心です。
 私たちだったらどうでしょうか?もし私たちの教会に、つい先日まで教会とキリスト教にあからさまに反対していた人が“私は回心して、キリストを信じようと思います”と言って入って来たら、にわかに信じられるでしょうか?“この人は何か企(たくら)んでいるのではないか?”そういう疑いを、私は心のどこかに持ってしまうと思います。
 もし大きな犯罪を犯した人が、“私は回心して、やり直したい”と言ってやって来たら、どうでしょうか?“この人、本当にだいじょうぶか?また何か犯罪を犯して、教会に迷惑をかけるのではないか?”。そんな不安を感じてしまうでしょう。
 そのような疑いや不安を抱く自分に、果たして“愛”はあるのか?と問わざるを得ません。愛とは何でしょうか?どのように考え、どのように行動することでしょうか?
 その答えをアナニアが持っています。アナニアは最初、「主よ、わたしはその人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました」(13節)と、サウロに対して先入観を持っていました。けれども、主イエスから「行け。あの者は‥‥わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15節)と命じられ、その言葉を信じてサウロのもとに行きます。そして、サウロに主イエスの御心を伝え、洗礼を授(さず)け、彼をダマスコの教会の仲間として受け入れるのです。
 その人が生きて来た過去があります。事実があります。それは変えられません。そして、その過去の事実に対して、私たちが何らかの見方をしてしまうのも致し方がないと思います。けれども、回心が必要なのはその人だけではありません。教会側の私たちにも“信仰と愛の回心”が必要なのです。心の隅にある疑いと不安は簡単にはぬぐえないでしょう。けれども、その人のために祈る。その人を信頼する努力をする。その人と対話をし、交わりを深めていく。難しい。でも、それが“愛”だと私は思うのです。細かいことは何も書かれていませんが、バルナバがきっとそういう人だったのでしょう。
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 ところで、そのような空気の中で、サウロ自身には、どのように生きることが求められているのでしょうか?教会のクリスチャンのほとんどは、自分のことを今もなお“迫害者”だと疑(うたが)っている。“殺人者”だと恐れている。恨んでいる人、憎んでいる人もいるだろう。簡単にはゆるされない。受け入れられない。一度見られた先入観と貼られたレッテルはぬぐえない。事実、過去は変えられない。サウロだって苦悩したでしょう。
 もし私がサウロだったら、どんなにがんばっても、ぬぐえないレッテル、決めつけられている偏見に傷つき、がっかりしてしまうでしょう。そして、どうせ変えられないのなら、いっそこの人たちから離れ、関係を断ち切ってしまった方が楽だ。苦しまずに済む。極端な話、自分のことを何も知らない人たちのところに行って、人生をリセットし、もう一度やり直そうと考えるかも知れません。
 けれども、そんなネガティブな思いが浮かぶ時、“これって悪魔に誘惑されているなぁ” “このまま進んだら悪魔の思うつぼだ。神さまからも、人からも引き離される”“愛から引き離される”。最近、そんなふうに考えるようになりました。
 人が自分のことをどう思うか。それはその人の課題(タスク)です。そして人の思いを私が変えることはできない。私にできること、すべきことは、自分の過去を神さまが赦し、受け入れてくださっていると信じること。たとえ相手が自分のことを先入観で見、レッテルを貼っているとしても、それを受け入れること。そして、そういう相手との関係から、自分には何ができるか、まさに「なすべきこと」(6節)を見つけること、人生の意味と目的を探し当てること。それが信仰と愛の道だと思うのです。
 そういう生き方を、サウロはフィリピの信徒への手紙3章13節で、こう語っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ‥‥目標を目指してひたすら走ることです」と。
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 最近、私は、人間関係を減点法ではなく加点法で行こうと考えています。百点満点の反応や態度を相手に期待していると、どうしたって減点が起こり、不満が募(つの)ります。悲しくなります。自分にできることを考え、不必要に相手を巻き込まず、期待し過ぎず、最初のスタートを10点とか20点ぐらいに設定する。そうすれば相手が何かをしてくれたり、言ってくれたりした時に、“あぁ、ありがとう”と感謝が生まれ、20点が30点になり、50点、70点になり、喜びが生まれます。それって、愛だと私は考えています。
 信仰と愛、それは、私たちが人と共に生きていくための、大切な“鍵(かぎ)”なのです。

 

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