坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年7月11日 主日礼拝説教  「平和の御言葉を聞く」

      
聖 書  使徒言行録10章30~33節
説教者  山岡 創牧師

30すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、 31言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。 32ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。』 33それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

 

「平和の御言葉を聞く」
「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33節)。
 ローマ帝国の百人隊長コルネリウス。彼のこの言葉はまさに今、礼拝を守っている“私たち自身”の言葉ではないでしょうか。私たちもまさに今、「神の前に」います。神さまは目には見えません。けれども、三位一体の神は聖霊なる神として、この場に共におられ、今、一人ひとりの内に働きかけてくださっていると私たちは信じます。心と耳を開いて、主の言葉を聞くことができるように、思いを集中させてくださっています。
 私たちが、主の言葉を聞くのは何のためでしょうか?それは信仰によって生きるためです。主の言葉を聞いて、それを信じ、受け入れ、導かれ、支えられて生きることが幸せだと思っているからです。そして、信仰は主の言葉を聞くことによって始まるからです。同じ使徒言行録9章に登場したサウロ(パウロ)は、回心してクリスチャンとなりました。そして、キリストの救いを宣(の)べ伝え、自分が生み出した教会に多くの手紙を書きました。その内の一つ、ローマの信徒への手紙10章17節で、サウロはこう語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と。コルネリウスは今、ペトロを通してキリストの言葉を聞こうとしています。キリストの言葉を聞くことによって信仰を始めようとしているのです。
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 10章の冒頭にあるとおり、コルネリウスは、祈っていた時に、幻で神の天使を見ました。どうしてコルネリウスは天使を見、神の啓示として天使の語りかけを聞くことができたのでしょうか? それは彼が祈っていたからです。祈り続けていたからです。だから、「あなたの祈りは聞き入れられ(た)」(31節)のです。
 神の言葉を聞く前に、聞くために、私たちがまずすべきことは何でしょう?それは祈ることです。もう10年以上前になりますが、ディボーションと呼ばれる聖書黙想の方法について教会で学んだことがありました。聖書を読み、御(み)言葉から自分に語りかけられている神の声を、説教を通してではなく直接聞く方法です。そして、聞き取った神の声を、受け取った神の恵みを、お互いに語り合い、分かち合う。そのように聖書から神の語りかけを聞こうとする時、まず最初にすべきことは祈ることだと教えられました。聖書から気づきが与えられるようにと祈り、御言葉に意識を向け、集中するのです。
 コルネリウスは、祈りの中で、天使の幻を通して神の啓示を受け、ペトロを招いて、「主があなたにお命じになったこと」(33節)を残らず聞くようにと示されました。そこで、3人の使いを送り、ペトロを招き、キリストの言葉を聞こうとしているのです。
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 キリストの言葉を聞くことは、信仰の始まりです。信仰とは何でしょうか?それはある意味で“神中心”の生活をすることです。自己中心の生活を、神中心の生活に切り替えることです。自分の都合や願い、自分の考えだけで判断し、決定し、行動する生き方は、もしかしたら周りの人を置き去りにし、深く傷つけていることがあるかも知れません。そのような自分をキリストの言葉を聞くことで見直していく生き方に切り替える。主イエスならどう考えるか、どう判断するか、どう行動するか。キリストの言葉をヒントにして、神を愛し、自分を愛し、人を愛することに近づけるような生き方を選択する。できればお互いにWinWinの結果になれるような行動を選択するのです。
 そこで思い出されるのが、ルカによる福音書10章38節以下にある〈マルタとマリア〉という話です。マルタとマリアは、主イエスと一緒に旅をするのではないけれど、主イエスが村に立ち寄った時には宿を貸し、お世話をしていたようです。けれども、主イエスが語り始めたので、マリアは主の足もとに座り、その話に聞き入りました。マルタは「もてなしのためせわしく立ち働いてい」ましたが、マリアの様子にイライラが募(つの)り、「手伝うようにおっしゃってください」と、その不満を主イエスにぶつけるのです。
 普通に考えたら、それはそうだ、マルタの言い分は当然だと思うところでしょう。ところが、主イエスはその通りだとは言わないのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10章42節)。
 この話を読むと、マルタに同情したくなる人が少なからずいると思います。その気持も分かります。けれども、マルタの姿はまさに、日常生活における私たち自身の姿だからこそ、そう思うのかも知れません。せわしく働いている。多くのことに思い悩み、心を乱している。そして、それを言い訳にして普段、聖書を読まず、キリストの言葉を聞かないで生活することを正当化しているところがないでしょうか。
 マルタの行動は一見、主イエスのことを考えているようで、実は自分のことを考えています。自分の思い描いたとおりにもてなしたくて、でも、そのとおりに行かない現実にいら立っているのです。キリストの言葉を聞く。それによって私たちは、自己中心な自分に気づかされ、自己本位な生き方を修正していくチャンスを与えられるのです。
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 一日5分、一日の288分の1の時間を神さまに献(ささ)げなさい。3分聖書を読み、2分祈りなさい。そうすれば、あなたの生活は必ず変わります。私が20代前半の時に聞いたアーサー・ホーランドという人の言葉です。実際にそうしてみたら、本当に変わることを味わいました。表面的な生活ではなく、自分自身が内側から変えられるのです。
 5分と言わず、2分だっていい。玄関の靴箱の上に〈聖書日課〉を置いておいて、そこに書かれている今日の御言葉を1節読み、玄関で1分祈るのだっていい。もちろん、机に座れるに越したことはありませんが、電車の中でだってベッドの中でだっていいと思います。ショート・メッセージ付きの『信徒の友』の日毎の糧もありますし、『一日一章』など、時間が取れれば聖書を読むための手助けはいくらでもあります。1週間かけて、次の礼拝の聖書個所を読むのもいいと思います。そして牧師のために祈る。
分からないまま読んだっていいのです。読み続けていれば、いつかハッと分かるようになる。感じるようになります。朝でも昼でも夜でもいい。
読めない日もあります。私にもあります。そういう日は、イエス様、ごめんなさい。明日、この時間を持たせてください、と祈るのです。読めないことを自分に言い訳することと、悔い改めて自分を赦(ゆる)すことは違います。
「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33節)。
神の前にいる時間を、礼拝の時と共に、日常生活においても、ぜひ設けてください。聞くことは信仰の始まり、そして信仰を成長させます。忙しさの中で、喜怒哀楽(きどあいらく)の中で、コルネリウスのように、キリストの言葉を聞く生活を整(ととの)えていきましょう。

 

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