坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年7月18日 主日礼拝説教  「救いへのジャッジ」

聖 書 使徒言行録10章34~43節
説教者 山岡 創牧師

34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35どんな国の人でも、神を畏(おそ)れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御(み)言葉を、 37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣(の)べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39わたしたちは、イエスユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦(ゆる)しが受けられる、と証ししています。」

 

「救いへのジャッジ」
 「神は人を分け隔てなさらない‥‥」(34節)。この神の御心(みこころ)を、不思議な幻によって示されて、ペトロは、外国人のコルネリウスの家にやって来ました。そこには、コルネリウスをはじめ、神の御言葉を残らず聞こうとする人々が集まっていました。その人々の姿を見たペトロは、ユダヤ人と外国人とを分け隔てなさらない神の御心を確信し、御言葉を語り始めます。
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 ところで、今日の聖書箇所を読んで、ちょっとおもしろいことに気づきました。つい先日まで〈ドラゴン桜〉という、勉強が苦手だった高校生が東大合格を目指すという学園ドラマが放送されていましたが、その中で、現代文の文章読解は“言い換(か)え”を見つけるのが重要だ、という授業がありました。まさにその“言い換え”です。
 36節に、神がイスラエルの子らに送ってくださった御言葉」と出て来ます。この「御言葉」、次の37節では、ユダヤ全土に起きた「出来事」と言い換えられています。更に38節では、ナザレのイエスのことです」となっている。つまり、「御言葉」「出来事」「イエスの3つが、言い換えのできる、イコールの関係だということです。
 それはどういうことかと言えば、「御言葉」というのは、神さまが人間に届けようと送ってくださる“メッセージ”ですから、つまり主イエスそのものが神のメッセージだということです。もう少し丁寧(ていねい)に言えば、主イエス「出来事」が、すなわち主イエスの教え、主イエスの行動と人との関わり、そして主イエスの十字架と復活が、神さまから人間へのメッセージを、無言で語りかけているということです。
 主イエスが、その出来事が、語りかけているメッセージとはどんなことでしょうか?ズバリ一言で言うなら、それは、神さまが私たち人間を愛している、ということにほかなりません。主イエスを通して、神さまは私たちに“愛しているよ”と語りかけているのです。嘘じゃないよ。本当に愛しているよ。その証拠に、私は主イエスを復活させたよ。この神のメッセージを伝えることがペトロら使徒の役目であり使命です。
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 神は私たち人を愛している。それが、神の「御言葉」のすべてです。真髄です。でも、この視点からもう少し、ペトロの言葉を、特に主イエス「生きている者と死んだ者との審判者」(42節)だということを考えてみたいと思います。
 主イエス「生きている者と死んだ者との審判者」だと宣(の)べ伝え、証しするように命じられたとペトロは語っています。私たちも、信仰告白使徒信条において“そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます”と言い表すことで、私たちの信仰を証ししているのです。「生きている者と死んだ者との審判者」である主イエス、皆さんはこのことを、どのように考え、信じておられるでしょうか。
 「審判者」とは“裁く者”です。人の罪を裁く神です。そして、裁きと言えば、私たちは大抵、有罪判決が下され、罰が与えられるとイメージするのではないでしょうか。
 けれども、私は、主イエスの裁きはそうではないと思うのです。今日の聖書、43節で、「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」と記されているとおり、主イエスの裁きとは、処罰ではなく、赦しだと思うのです。それこそが、神さまが私たち人間を愛する裁きなのではないでしょうか。
 そこで思い起こす主イエスのエピソードがあります。一つは、姦通(かんつう)の現行犯でつかまった女性が主イエスの前に引き出された話です。律法で裁き、処刑するのが当然だと迫(せま)る人々に、主イエスは、あなたは罪を犯したことがないか?そう思う者が石を投げよ、と問いかけ、全員が立ち去った後で、ご自分も「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯さないように」ヨハネ8章11節)とこの女性に語りかけ、送り出すという話です。悔い改めている。そう思う人を、主イエスは赦(ゆる)されます。
もう一つは、二人の罪人が主イエスと一緒に十字架に架けられた時の話です。一人は主イエスをののしり、神の子なら自分を救い、俺たちも救えとわめきました。けれども、もう一人はそれをたしなめます。そして、自分の罪を認め、主イエスに対して、「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23章42節)と願います。自分は罪人として十字架刑という当然の報いを受けている。そして、罰として地獄に落ちる。一緒に御国に連れて行ってくださいなんて、間違っても言えない。だから、せめて“あなたの記憶に留めてほしい”と願ったのです。
 ところが、主イエスの言葉は思いがけないものでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23章43節)。有罪判決どころか、人生の土壇場(どたんば)で、赦しが告げられ、天の御国に入れることが約束されたのです。
 確かに、罪は何らかの形で裁かれなければならないものでしょう。けれども、神さまの御心は、私たち人間を愛することです。自分の罪を認め、悔い改め、神の憐れみにすがるなら、赦しを与え、罰さないのが神さまの御心です。そういう神さまの愛の御心が、聖書の至るところで示されています。主イエスは、この世において自ら人をお裁きになりません。そして、あの世においてもきっと、天国の入口におられて、そこで死んだ者の罪を問い、自分の罪を認め、悔い改める者は天国に入れてくださるに違いありません。それどころか、一旦地獄に落ちた人にさえ、救いを宣べ伝え、悔い改めるチャンスを備えてくださっているのです。「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」(Ⅱペトロ3章9節)、それが審判者としての神の御心であり、主イエスの姿勢なのです。
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 ふと小学生の時の出来事を思い出しました 。私はやんちゃで、いたずら好きで、学校のガラスを三日連続で割ったなんてことを自慢に思っているような子供でした。ある時、4年生の時でしたか、火災報知機のボタンをどこまで強く押せるか、などという、とんでもないゲームをしました。皆、順番にちょっと押してみる。そして、私の番‥‥何と!強く押し過ぎて、私は火災報知機を鳴らしてしまったのです。ジリリリリリッと鳴り響く音に、真っ青になりました。やがてその音はおさまり、私は教頭先生に呼ばれて職員室に連れて行かれました。教頭先生の後ろから頭を垂れてついて行き、どんなに叱られるだろかと私は内心とても恐れていました。けれども、教頭先生は特に叱りもせず、これからは気をつけなさい、みたいなことを言っただけだったように記憶しています。あれは、子ども心に救いでした。どうしてその程度で済んだのか?不思議でなりませんが、この子は反省していると教頭先生は思って、叱らなかったのかも知れません。
 罪を認め、悔い改める者を裁かない。赦す。信頼して立てる。再び生かして歩ませる。私たちに対する神さまの愛は、それです。その愛に応えて進みたいものです。

 

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