坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20210928162158p:plain2021年9月19日 主日礼拝説教  「わたしの心に適う者」

 聖 書 使徒言行録13章13~25節
説教者 山岡 創牧師

13パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。 14パウロバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日(あんそくび)に会堂に入って席に着いた。 15律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。 16そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
イスラエルの人たち、ならびに神を畏(おそ)れる方々、聞いてください。 17この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕(みうで)をもってそこから導き出してくださいました。 18神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、 19カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。 20これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。 21後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、 22それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』 23神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。 24ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣(の)べ伝えました。 25その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

「わたしの心に適う者」
 今、NHKの大河ドラマ『青天を衝け』が放映されています。主人公は、我ら埼玉県が生んだ渋澤栄一です。栄一は幕末、幕臣となって江戸幕府のために働きますが、やがて江戸幕府は倒され、明治時代が始まります。しかし、渋澤は対立していた明治政府に取り立てられ、貨幣鋳造や戸籍、経済出納(すいとう)などの様々な政策を立案して活躍します。
 そして退官した後、今度は実業界で、現在のみずほ銀行東京商工会議所東京証券取引所を設立し、経営しました。また、福祉や医療、教育、理科学研究所の設立等に尽力しました。数ヶ月前に、渋澤の生まれた深谷市に自動車整備に行き、カフェで栄一の顔がミルクの泡の上に描かれたカプチーノを飲んでいる時には、そこまですごい人だったとは知りもしませんでした。2024年からは1万円札の新たな顔にもなるらしいですね。
          *
 けれども、そのような歴史的な人物が、“自分”とどのようにつながっているか?なんて、私たちは考えたこともないのではないでしょうか? 考えたことがないどころか、むしろ自分の人生には何の関係もないと思っている。聖徳太子憲法17条を定めたことも、本能寺で織田信長明智光秀に倒されたことも、その後、豊臣秀吉が関白となって日本を統一し、更に徳川家康が豊臣政権を滅ぼして江戸幕府を開き、鎖国キリスト教を禁止したことも、私の人生に何の関係があるの?そんなの関係ないでしょう。そういうのは学校で学ぶ歴史の“知識”だよ‥‥と思っている。そうではないでしょうか?
 それが普通の感覚だと思います。私もそうです。ただ、そこが私たち日本人とユダヤ人の大きな違いだなぁ、と今日の御(み)言葉を黙想していて、ふと思いました。
 モーセユダヤ人のエジプト脱出を導き、十戒と律法を定めたのは、紀元前1300年頃の話です。日本の憲法17条などよりもずっと昔です。でも、ユダヤ人は、その歴史が“今”の自分の人生に関わると思っている。サウルが初代の王となり、その後、ダビデが王国を受け継いだことを、ユダヤ人は、自分の救いにつながっていると意識している。
第2次世界大戦が終わった時、2千年の間、世界中に散らされていたユダヤ人がパレスチナに戻って来て、イスラエルを建国しました。もちろん政治的に、人道的に大いに問題があると思います。しかし、彼らは、神がモーセとご先祖に「カナンの地」(19節)を与えると言われた約束を、3千年の時を経て今、再び果たしてくださったと本気で信じているのです。そういう歴史意識なのです。“自分は神の民だ”というアイデンティティーの根本意識がとても強く、堅固(けんご)で揺るがない。それがすごい。
 だから、パウロ「励ましのお言葉」(15節)でも、ユダヤ人の歴史が語られます。使徒言行録(しとげんこうろく)に既に出てきたペトロやステファノの説教でも、やはりユダヤ人の歴史が語られています。私は、そんな歴史の話を延々としないでいいから、核心のイエス・キリストの救いをズバリと語ればいいじゃないか、と思っていました。
 でも、そういうわけにはいかない。天地創造の初めから、神さまのご計画があり、現実の歴史があり、その中で神は救いのご計画を実現され、「救い主イエスを送ってくださった」(23節)のです。歴史とは神のご計画の実現であり、歴史は私の人生の土台、神のご計画に私の人生も組み込まれている。そんなふうに少しでも信じ、意識することができたら、私たちの信仰生活は今よりも固く、揺るがないものになるのかも知れません。
          *
 さて、そのようなパウロの言葉の中に、洗礼者ヨハネが出て来ます。彼は、神のご計画の中で、自分は救い主メシアではないと自認し、主イエスこそそれだと感じていました。彼は主イエスに何を見いだしたのでしょう? 自分とイエスの違いは何だと思って、「わたしはその足の履物をお脱がせする値打もない」(25節)と感じたのでしょうか? 
 ヨハネは、ユダヤ人に悔い改めを勧(すす)め、ヨルダン川で、悔い改めのしるしとして洗礼を授けた人です。主イエスヨハネのもとにやって来て、洗礼を受けました。だから、主イエスヨハネの弟子だと見ることもできるのです。
 けれども、ヨハネは主イエスに、自分とは段違いの値打ちを見いだしました。それは、主イエスが洗礼をお受けになった時、「わたしの心に適(かな)う者」(ルカ3章22節他)という神の声が聞こえたこととも関係していると思われます。かつてダビデに言われたのと同じ言葉(22節)が、天から主イエスにもかけられたのです。ヨハネはこの声を聞いた。いや、洗礼の時ではなかったかも知れません。ただ、その後の主イエスを見ていて、主イエスと関わって、そのように強く感じたのではないでしょうか。ヨハネは、主イエスの何が神の心に適っていると感じたのでしょうか?
 17日(金)の晩、数名の青年とズームで御言葉の分かち合いを行いました。黙想したのは、マルコによる福音書2章13~17節〈レビを弟子にする〉という箇所です。その17節で主イエスは語りかけます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである」。
 これだ!これが自分と主イエスの違いなのだ!そして、このイエスの心が神の心にピタリと適っているのだ。ヨハネは、ヘロデ王によって牢獄に捕らわれた後、主イエスの活動や言葉を自分の弟子から知らされて、きっとそう感じたに違いありません。
 神の掟である律法を行う人が「正しい人」と見なされ、敬(うやま)われた時代です。罪人や徴税人は、律法を守れない者として軽蔑され、仲間外れにされました。ヨハネも厳しい人でした。罪人や徴税人にはもちろん、自分のもとにやって来た群集にも「蝮(まむし)の子らよ」(ルカ3章7節)と厳しく非難し、律法に適う行いを求めました。
 その考えが間違っているとは思いません。ただ、人は自分の罪、過ち、失敗を厳しく責められたら、立つ瀬がなく、かたくなになり、正しい生き方に心を向けることができなくなるのではないでしょうか。聞いてほしい。分かってほしい。受け止めてほしい。包んでほしい。ゆるしてほしい。愛してほしい。私たちは望むのは、それです。まず、ゆるされ、愛されること。それがあって初めて人は安心し、自分の罪、過ち、失敗を認め、悔い改め、整理して、やり直したり、良い方向に進んでいくのではないでしょうか。
 主イエスは、徴税人(ちょうぜいにん)であったレビを招いて弟子とし、彼の仲間の罪人たちと食事を共にしました。石打ちにされそうな遊女を少なからずゆるしました。徴税人ザアカイに「蝮の子」とは言わず、「この人もアブラハムの子なのだから」(ルカ19章9節)と接しました。その神の心に適う愛と赦(ゆる)しによって、多くの人が救われました。そして、この愛と赦しは今、聖書を通して、私たちにも届けられ、語りかけられています。
          *
 青年との分かち合いの中で、特に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との主イエスの言葉を自分たちと重ね合わせて黙想する中で、この言葉はいい言葉だなぁ、“間違っているからこそ、welcome!”“自己肯定感が低く、魂の病人のようになっている時に、自分に目を向けてくれる人の存在は嬉しい”、そんな感想を聞くことができました。主イエス・キリストは、神の心に適う者として、神の愛と赦しを私たちの魂に届けるために、ご計画によって神が送ってくださった。この愛と赦しを、魂の土台として毎日の生活や人間関係を生きていきましょう。

 

リンク