坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20211005192416p:plain2021年10月3日 主日礼拝説教 「行いによって見えなくなるもの」

聖 書 使徒言行録13章34~43節

説教者 山岡 創牧師

 

34また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽(く)ち果てることがないようになさったことについては、

『わたしは、ダビデに約束した

聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』

と言っておられます。35ですから、ほかの個所にも、

『あなたは、あなたの聖なる者を

朽ち果てるままにしてはおかれない』

と言われています。36ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。40それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
41『見よ、侮(あなど)る者よ、驚け。滅び去れ。

わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。

人が詳しく説明しても、

お前たちにはとうてい信じられない事を。』」
42パウロバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

 

「行いによって見えなくなるもの」
 新型コロナ・ウィルスのワクチン接種が、日本国内でもだいぶ進んで来ました。9月末で、1回目の接種をした人が約70%、2回目を終えた人が約60%だということです。2回接種すると、発症予防効果も、また発症した場合に重症化しない効果も90%以上と格段に高いことが、製薬会社のファイザーとビオンテックによって発表されています。
 けれども、発症予防の効果は接種後2ヶ月をピークに段々と下がって来ます。そのため、ファイザーは3回目の接種をアメリカの規制当局に申請するようです。
 ワクチンの効果が時間と共に朽ちていく。やがては朽ち果てて失われる。今日読んだ聖書箇所に、「朽ち果てる」という言葉が何度も記されています。この言葉を黙想しながら、ふとワクチン効果の持続性の話を連想しました。
 朽ち果てるということは、ある意味で、その効果がなくなるということです。逆に言えば、朽ち果てないということは、その効果が持続するということでしょう。37節に「しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」と、イエス・キリストの命が朽ち果てないことが言われています。それはつまり、イエス・キリストによる救いの効果は、永遠に続く、永遠になくならないということです。
         
 イエス・キリストによる救いの効果とは何でしょうか?それは、38~39節の御言葉に示されています。「この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。救いの効果、それは、キリストの「罪の赦し」によって「義とされる」ということです。
 律法という神の掟を守り、行うことによっては、人は義とされることはできない。神さまから“正しい人間”と承認されることはできなかったのです。人は、律法を表面的に、形式的に守ることはできても、その真髄を汲(く)み取って、神さまに喜ばれるように行うのは、非常に難しい。なぜなら、私たちの内側には、神さまに従うことができない、神さまの心と一つになれない“罪の心”があるからです。
 自力ではいかんともし難い、その罪の心を、罪の行為を、イエス・キリストが赦してくださいました。私たち人間の罪の責任を負って、十字架に架かり、ご自分の命によって私たちの罪を免責するという方法で、罪の赦しを実現してくださったのです。それによって、私たちは神さまから「義」と判決され、“正しい人間”だと承認されて、生きることができるようになりました。責任転嫁と自己弁護の生き方ではなく、また自己否定の絶望でもなく、キリストの愛を信じて、自分の罪を認め、赦され、自分を肯定し、常に再起して生きられるようになったのです。言わば、キリストは、罪という“魂のウィルス”を除去するワクチン、永遠の持続効果を持った“魂のワクチン”だと言っても良いでしょう。“信仰”という注射器によって、私たちはこのワクチンを魂に打つのです。
         
 ファリサイ派ユダヤ人と徴税人が、祈るために神殿に参拝した話を思い起こします。ファリサイ派は、律法を熱心に守り行うことで「義」と認められよう、救いを獲得しようとするユダヤ教の宗派でした。ファリサイ派の人はこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯(おか)す者でなく、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に2度断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18章11節)。律法を守り、悔い改めのしるしとして断食し、感謝の気持として献金する。それは“信仰の模範”と言っても良いほどに立派な行為です。けれども、問題は、彼が自分の行いによって義と認められると考えていること、そして、律法を守り行えない人を見下し、義とされない罪人だと軽蔑していたことです。
 他方、徴税人は神殿のいちばん後ろで、胸を打ちながら祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18章13節)。彼は、自分が律法を守っていない人間であることを嘆いていました。でも、悔い改めて律法を行う力は自分にはない。分かってはいるけれど、やめられず、さりとて開き直れるふてぶてしさもない。救いを求めて神さまの憐れみにすがる以外にない、弱い罪人なのです。
 けれども、その二人の祈る姿を見ていた主イエスは言われました。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)と。
 パウロが語っているように、「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38~39節)という救いを示す一つの例です。マタイやザアカイのように、主イエスの愛に触れ、罪を赦され、義とされたことを素直に信じ、自分を肯定して、その生き方を変えた徴税人はたくさんいます。
         
 その一方で、ファリサイ派のような人は、イエス・キリストによって義とされ、救われるという「神の計画」(36節)を受け入れることができませんでした。行いこそ正義だ。律法を守る行いこそ、義と認められ、救われる条件だ。そういう人々が、主イエスの言葉を聞かず、主イエスの行動を認めず、十字架に架けて処刑したのです。
 行いこそ正義。行いこそ最大の価値。行いこそ評価と救いの条件。そう信じてやまない人々に、パウロは41節で、ハバクク書1章5節の預言を引用して、警告しています。イエス・キリストの言葉を侮って聞かないと、最後には滅び去ることになるよ、と。
 ふと、『夢をかなえるゾウ』というベストセラーを連想しました。平凡なサラリーマンが、“神”を名乗るガネーシャというゾウの指導によって自分の人生を変えていく物語です。成功の近道を求める彼に、ガネーシャは、人生で成功した人たちを挙げて、そういう人は皆、地道な努力を続けているのだとサラリーマンに教えるのです。
 この本を解説している動画がけっこうありますが、オリエンタル・ラジオというお笑い芸人の中田敦彦が、ガネーシャの言葉に対する正反対の二つの態度、二つのタイプの人について、こう語っています。彼は、二つのタイプの人について“鉄の凡人”と“黄金の成功者”と言うのですが、前者は、近道を探し、地道なアドバイスを絶対にやらず、やらない言い訳を無茶苦茶言う人だと言い、後者は、成功者の地道な努力を見つめ、それを素直に受け取り、言い訳をせずに毎日続ける人だと言っています。
 聖書は、イエス・キリスト「神が復活させた」(37節)と語ります。「朽ち果てることがない」(37節)と語ります。つまり、イエス・キリストは“救いの成功者”だということです。その言葉を素直に聞いて、実践できるかどうか。私たちも、律法とは形は違えど、現代社会において、行いこそ正義。行いこそ最大の価値。行いこそ評価と救いの条件だという魂のウィルスに毒されています。愛だ、赦しだと言うけれど、“でも”と主イエスの言葉を否定し、“やっぱり行いだよ、結果だよ”と自分の考えを弁護し、信仰生活において主イエスの言葉を地道に実践せずに終わる恐れはないでしょうか。
 「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」パウロは、ローマの信徒への手紙10章14節で語っています。イエス・キリストという救いの成功者の“愛”という地道な努力を見つめ、それを素直に受け取り、毎日続ける“黄金の信仰の成功者”となれたら本当に幸いだ、と心から思います。

 

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