2021年10月10日 主日礼拝説教 「永遠の命を得るように」
聖 書 使徒言行録13章44~52節
説教者 山岡 創牧師
44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
47主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
あなたが、地の果てにまでも
救いをもたらすために。』」
48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
51それで、二人は彼らに対して足の塵(ちり)を払い落とし、イコニオンに行った。
52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
「永遠の命を得るように」
「永遠の命」、皆さんは手に入れたいと思いますか?‥‥‥って、それがどんな命なのか分からなければ、何とも言えないですよね。ちなみに「永遠の命」とは、聖書によって示された神とその救いを信じる者にとって、信仰の “最終目標”だと言っても過言ではありません。「永遠の命」って何でしょうか?どうしたら得られるのでしょうか?
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ある律法の専門家が、主イエスに尋ねました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10章25節)。律法には何と書いてあるか?と問い返され、彼は、神を愛すること、自分を愛し、自分のように隣人を愛することだ、と答えます。すると主イエスは、それを実行すれば命が得られる、とお答えになりました。
しかし、専門家は、“あなたは答えを知っているけれど、実行していないから、永遠の命を得られないのだ”と非難されているように感じたのでしょう。自分を弁護し、正当化しようとして、「わたしの隣人とはだれですか」(29節)と再度、主イエスに尋ねるのです。すると、主イエスは〈善いサマリア人〉のたとえ話を語り始めます。
強盗に襲われ、倒れていたユダヤ人を、同胞のユダヤ人の祭司、また祭司の一族も見て見ぬふりをして通り過ぎます。けれども、ユダヤ人とは犬猿の仲のサマリア人が、彼を助け、手当てし、宿屋に泊らせて、その賃金まで払って行くのです。そこに「永遠の命」がある。このサマリア人は、永遠の命を生きていると主イエスは言われるのです。
また、ある金持ちの議員も、同じように“永遠の命を受け継ぐには‥”と主イエスに尋ねました。主イエスは、律法の基礎である十戒を守るようにと語ります。しかし、十戒は子供の時から守って来た、と答える議員に、主イエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。‥‥それから、わたしに従いなさい」(ルカ18章22節)と言われました。そこに「永遠の命」がある、あなたの求めているものがある、と主イエスは言われるのです。
いや、自分と仲の悪い人を助けて、宿代まで払ったり、持っているものをすべて人に分けてあげなさい、ですって‥‥永遠の命、私はちょっと遠慮しておきます、と思っても不思議ではありません。実際、律法の専門家の方は分かりませんが、議員の方は、金持ちだったので、悲しみながら立ち去って行ったと聖書は記しています。
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けれども、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分け与え、主イエスに従って行った人が、聖書の中にいます。それは、徴税人ザアカイです。
ザアカイはエリコに住む徴税人の頭で、金持ちでした。でも、みんなに嫌われていました。なぜなら、みんなから税を搾(しぼり)り取り、その税を、みんなが大嫌いなローマ帝国に貢(みつ)ぎ、しかも私腹を肥やしていたからです。ところが、主イエスは、エリコの町においでになった時、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)とザアカイに声をかけ、彼の家に行きました。そして、夕食を共にしている時、ザアカイは立ち上がって、こう言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」(8節)。
あの議員のように、主イエスから、そうせよ、と言われたわけではありません。おい、ザアカイ、どうした!?、いったい何があった!?‥‥と聞きたくなりませんか。
一言で言えば、主イエスの“愛”が効いちゃったのです。先週の礼拝説教で、主イエスは、永遠の持続効果を持った“魂のワクチン”だとお話しました。人のせいや社会のせいにし、言い訳し、自分を守るような生き方、あるいは、自分はダメ人間だ、何の価値もないと否定し、絶望するような生き方‥‥そんなふうに“魂のウィルス”に毒されたような生き方をしていた人が、主イエスの愛に触れ、感激し、これだ!、人生は愛されることがいちばん!、そして愛することがいちばん!という生き方に変えられてしまったのです。主イエスという魂のワクチンは、どうやら朽(く)ち果てない持続効果だけではなく、即効性もあるんですね。疲れている時のタウリン“100万”ぐらい、魂に効く。
ザアカイはこの時、「永遠の命」を手に入れたんだなぁ、と私は思います。永遠の命って、この世を永久に生きることではない。また、あの世に行って、神の国で永久に生きるという希望につながってはいるけれど、それだけではない。それは、永遠の持続効果を持った、主イエスの愛という“魂のワクチン”を接種して、常にそれが効いている命のことでしょう。神の愛を感じ、感激し、感謝し、常に幸せを実感しながら生きている生き方のことでしょう。
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今、大原扁理(おおはら へんり)さんという1985年生まれの人が書いた『年収90万円でハッピーライフ』(ちくま文庫)という本を読んでいます。そのカバーの帯の部分には、“社会的成功に乗り遅れまくった僕を待っていたのは、楽し過ぎる毎日だった”とあります。大原さんは、この世の常識“当たり前”を疑い、何が幸せと思うかは人によって全然違うんですから(同書29頁)と、自分が幸せだと感じる実感を大切にして生きています。
律法の専門家のように、知識と地位があっても幸せとは限りません。議員のように、どんなにお金があっても、永遠の命を生きていると幸せを実感できないこともあります。その意味では、愛されている人生、愛する人生が幸せかどうかは、人によって違うかも知れません。けれども、神に愛されている人生って言い換えれば、“自分はこれでいいんだ”と自己肯定できる生き方のことです。大原さんが、自分を肯定しながら生きていることは間違いないでしょう。だから、彼はこの本の最後の章で、こう書いています。
わたしがもし、急病で自室で亡くなることがあったら‥‥‥どうぞ悲しまないでく
ださいね。わたしはやむにやまれずではなく、自分の意志でひとりで暮らすことを選
んだんですから。死んだときはひとりだったかもしんないけど、孤独かどうかはまた
別の話です。好きなように生きて、勝手に死ねたら、それはもう大往生。むしろ喜ん
でほしい。(同書228頁)
この潔さが、永遠の命を得るように「定められている」(48節)という言葉を考えるヒントじゃないかな、と感じました。「定められている」って何だよ!?と思いませんか?自分が永遠の命を得たいと願っても、神さまがそう定めている人しか得られない、ってことか?それでは信じる意味がないではないか!?と思います。
でも、そういうことではないと思うのですね。セネカという哲学者も、運命は、志のある者を導き、志のない者を引きずっていく、と語りました。だれのせいにもせず、言い訳をするのでもなく、自分でその生き方を選んで、それを引き受けて生きている。その潔い志が、傍から見ると、まるで「定められている」ように見えるのではないでしょうか。だれかのせいにし、言い訳をしていたら、私たちは「永遠の命」を、愛されている命を、自分を肯定する命を「得るに値しない者」(46節)に自分をしてしまいます。
主イエスは、ユダヤ人社会の常識を疑い、自分は父なる神に愛されているという実感を大切にしながら自分を肯定し、潔く、“自分”を生きていた方だと思います。迷い悩み、私たちはなかなかそこまで行けませんけれど、“あなたも父なる神に愛されているよ”と、主イエスは私たちを「永遠の命」へと、今日も招いておられます。