坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年10月17日 主日礼拝説教 「恵みの御言葉を生きる ~ 勇敢」

聖 書 使徒言行録14章1~7節

説教者 山岡 創牧師

 

イコニオンで
1イコニオンでも同じように、パウロバルナバユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
2ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
3それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業(わざ)を行い、その恵みの言葉を証(あか)しされたのである。
4町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。
5異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
6二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。
7そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

 

「恵みの御言葉を生きる ~ 勇敢」
 アメリカ横断ウルトラクイズ。1977年から1998年にかけて日本テレビが企画した視聴者参加型のクイズ番組です。日本から広大なアメリカ大陸を横断しながら、クイズに勝ち抜いた二人が、ニューヨークで最終決戦を行い、チャンピオンを決めます。
 そのいちばん最初に、日本全国から集まった、たくさんの応募者をふるい落とすために、10問ぐらいの○×クイズが国内で行われたと記憶しています。地面に○が書かれたサイドと×が書かれたサイドがあって、クイズが出されると挑戦者たちは、どちらかのサイドに移動します。10秒ほど経つと両サイドの間がロープで仕切られ、司会者が○か×か正解を発表する。当たった側の人はガッツポーズで歓声を上げ、外れた側の人は、あーぁ、という顔でガックリと肩を落とす光景が印象的でした。
         
 今日の聖書の言葉を黙想しながら、私はふと、アメリカ横断ウルトラクイズの、最初の○×クイズを思い起こしました。「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた」(4節)という御言葉からです。まるで真ん中をロープで仕切られるかのように、両サイドに分かれたのです。
 どうしてこのような分裂騒動が起こったかと言えば、それはパウロバルナバがイコニオンでもユダヤ人の会堂に入って話をした」(1節)からです。話というのはもちろん、イエス・キリストのことです。ユダヤ人を祝福し、更に異邦人をも救うために、神がそのご計画において、この世に遣(つか)わされたイエス・キリストこそ、永遠の命をもたらす救い主だ、という信仰の話です。
 その話を聞いて、「大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った」(1節)といいます。その一方で、「信じようとしないユダヤ人たち」(2節)が当然のことながらいました。フェアに考えれば、何を信じるかは自由ですから、それで話は済んだのです。
 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、「異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」(2節)と書かれています。どうしてそんなことを?と思いますが、直前の13章でも、アンティオキアの町で同じようなことがありました。その理由は「ねたみ」(45節)でした。たとえて言うなら、自分が商売をしている町に同じような商売をする人が入って来て、今まで自分の店に来ていたお客さんをゴッソリ持って行かれた、といった感じでしょう。それは確かに、ねたんでもおかしくはないわなぁ、と思います。
         
 イコニオンでも少なからず、ねたみの感情があったかも知れません。“あっ、この気持、ねたみだ”と気づいて、自分の感情を静めればよかったのですが、問題は、自分たちのねたみに気づかず、あるいは認めようとせず、これを“正しいか、間違っているか”という善悪の問題、是非の問題にすり替えたところにあります。人間って、けっこう感情で判断したり、動いていたりするものですが、そういう自分を弁護しようとして、あれこれと理屈をつけて、正当化しようとすることがありがちだと思います。
 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側につきました。これはもちろん、どちらの側についたら正解で、どちらの側についたら間違いという、クイズのように単純な正解があるわけではありません。でも、それぞれの側についた人々は、“自分たちの方が正しい”と考え、“こちらが○サイド、向う側が×サイドだ”と、目には見えないサイド分けを心の中でしていたのではないでしょうか。
 そういう意識だけならまだしも、自分たちの方が正しいと思う意識はともすれば、間違っている相手を排除し、潰(つぶ)すことによって、自分たちの正さを証明しようとする行動になる。それが怖いところです。イコニオンの町でも、「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」(5節)と書かれています。
         
 さて、先週の説教で、大原扁理さんという人の『年収90万円でハッピーライフ』(ちくま文庫)という本を紹介し、その中から引用させていただきました。大原さん、別にお金のことだけを書いているわけではありません。どのように生きたら楽に暮らせるか、そのための自分なりのハッピー思考術を書いていて、読んでいて、この人、すごいなぁ、と思います。先週に続き、今日もこの本から紹介させていただきますが、〈隠居(いんきょ)はベストな生き方でしょうか?〉という章があります。その中で大原さんはこう書いています。
 いい悪いとか、正しい間違ってるみたいな、相対的で対立的な価値観って、疲れると思う。間違ってる何かがないと、自分が正しい側に立てないというのは、しんどくないでしょうか。世の中ってそういうふうにはできてないと思うんです。だって、特に誰も間違ってない場面って、生きてたらよく遭遇(そうぐう)しますよね。そしたら自分が正しくなるために、必死で間違ってる他人を探して、あるいは無理やり作り上げて、否定しなきゃいけないじゃん。めんどくさ。そういうのをいちいち判断することからは徹底的に離れて、「個」「わたしはわたし」っていう感じを目指すんです。そうすると、正しさにがんじがらめになっている現代社会の風潮から解放されて、今よりちょっとラクになるんじゃないかな。(同書74~75頁)
 宗教もそうですが、宗教に限らず、私たちは、自分がこだわっているものや、思い込みの激しいものがあると、その正しさを主張し、その正しさを証明しようと躍起(やっき)になります。自分と違う人、反対の人を間違っていると断じ、排除し、潰(つぶ)したくなります。確かに“めんどくさ”です。とは言うものの、私たちは、そういうすれ違いや対立、分裂を、家庭においても、学校や会社、サークル等、社会においても、そして教会においてさえも経験します。自分が躍起になっている時もあり、反対に自分が否定され、排除されることもあります。「勇敢」って、そういう是非の価値観、是非の関係からできるだけ離れ、“わたしはわたし”っていう生き方を目指す勇気のことではないでしょうか。
         
 13章46節にも、今日の14章3節にも、「勇敢に語った」と記されています。勇敢って何だろう?自分に反対する人に立ち向かう勇気のことだろうか?そして、自分の正さを主張し続けて、相手と戦って打ち破れば、それが「勇敢」ということだろうか?
いや、違うと思うんですね。単純なことはともかく、どっちが正しく、どっちが間違っているかなんて、なかなか分からない。いや、そもそもそんなものはないのかも知れません。だから、自分を信じて、人から何と言われようと、否定されようと、“わたしはわたし”と自分を肯定し、自分が楽に、自由に生きていくことを目指す勇気こそ、ここで言われている「勇敢」ということではないだろうか、と思うのです。
そのように生きようとする時、主イエス・キリストは必ず、“あなたの側”についています。私たち一人ひとりを愛して、“あなたはあなたでよし”と認めてくださるのがキリストであり、神さまだからです。「主を頼みとして」(3節)、“わたしはわたし”と勇敢に生きようとする生き方、それを“信仰”と呼ぶのです。

 

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