坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年12月12日 アドヴェント第3主日礼拝説教

   「神が共にいれば」

聖 書 マタイによる福音書1章18~25節

説教者 山岡 創牧師

イエス・キリストの誕生
1.18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1.19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1.20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎(たい)の子は聖霊によって宿ったのである。
1.21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1.22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1.23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1.24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1.25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

「神が共にいれば」
 一昨日の金曜日、北坂戸駅前にある坂戸市文化施設オルモで上映された映画〈一粒の麦〉を見に行きました。明治時代に、日本初の女性医師となり、また社会運動家として貢献した荻野吟子(おぎの・ぎんこ)の生涯を描いた作品です。未だ男尊女卑(だんそんじょひ)の明治時代、吟子は、福沢諭吉の『学問ノススメ』、“天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず‥”との平等思想に支えられ、医学の道を志します。やがて日本初の女医となった吟子は、クリスチャンで牧師でもある志方之善(しかた・ゆきよし)と出会い、再婚します。
 北海道の原野を開拓して、神と共に生きる“インマヌエル村”を作りたい。そんな夢を持つ志方と、その後、吟子は北海道に渡り、仲間たちと共に開拓を始めます。けれども、明治政府が開拓に乗り出し、土地は没収され、夢破れた志方は41歳で召されます。残された吟子は東京に戻り、残りの生涯を再び女医の働きにささげたのでした。
 ところで、志方之善が夢見たインマヌエル村というのは、今日読んだ聖書の23節によって思い立った夢だった思われます。「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。その意味は、「神は我々と共におられる」ということです。
 クリスマスは、神の独り子イエス・キリストの誕生を通して、神が私たちと共にいてくださる恵みを受け取る時です。神が“わたし”と共におられる。それはどのような恵みでしょうか? 
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 「神は我々と共におられる」。この御言葉(みことば)は、ヨセフがたいへん苦悩している時に語りかけられました。と言うのは、婚約していたマリアが、ヨセフと「一緒になる前に‥‥身ごもっている」(18節)ことが分かったからです。聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)と書かれていますが、明らかになったのはマリアが身ごもっているという事実だけです。そして、ヨセフには身に覚えのないことでした。
 ヨセフは「正しい人」(19節)でした。神の掟(おきて)である律法を守る人という意味です。ヨセフは、マリアが婚約者である自分以外の男性と関係して、姦淫(かんいん)の罪を犯したと考えたでしょう。律法によれば、姦淫に対する罰は石打ちの刑でした。けれども、表ざたにしてマリアが処刑されることをヨセフは望みませんでした。でも、姦淫の女性と結婚することは、彼の“正しさ”が許さなかった。自分の種ではない子どもを宿しているマリアを容認することにも、彼の感情は耐え難かったのではないでしょうか。
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 ヨセフは「縁を切ろうと決心」(19節)します。けれども、彼は「夢」を見ます。夢で「主の天使」のお告げを聞くのです。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(20~21節)。マリアを迎え入れなさい。神さまのお告げは、ヨセフが“正しさ”から決心したこととは正反対でした。
 “正しさを疑え!”。11月14日の礼拝で使徒言行録15章1~11節の御言葉を説教した時、『悪魔とのおしゃべり』(サンマーク社、さとうみつろう著)という本を紹介しました。みつろう、という主人公の前に、人形ぐらいの小さな悪魔が現れます。この世には“正しさ”が多すぎる。世間の正しさ、周りの人が言う正しさ、そして自分の中に抱えている正しさが、人を縛(しば)り、苦しみを与え、可能性を奪(うば)っている。すべての「正しい」とされていることを疑(うたぐ)ってみるのだ。それが“悪”だ!悪とは、正しさを疑う行為である。そうすれば苦しみから解放され、可能性が開けるのだ。悪魔はそのように、みつろうに教えます。実はこの悪魔、みつろうが以前に対話したことがある神さまが化けていた、という落ちなのですが、確かに、いつの時代も世間の常識や正しいとされていることを疑い、批判し、反するような行動をとると、それは悪だ!と否定されることがしばしばではあります。そうするには信念と勇気が必要です。また、自分自身の自己正当化に気づき、改めようとする素直で、柔軟な心が求められます。
 ヨセフは元々、姦淫の罪を犯した者は石打ちの刑である、という律法の正しさをそのまま実行するような人ではありませんでした。けれども、マリアのことを不問に付して、そのまま結婚しようとは、律法の正しさの手前、また感情的にもできなかったのでしょう。世間から、あいつは姦淫した相手を離縁(りえん)することもできないなんて、だらしのない奴だ!と思われることにも耐えられなかったのかも知れません。それが、ヨセフが自分の中に抱えている正しさでした。変えられないと思っていたこだわりでした。
 その正しさを疑え。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との言葉によって打ち壊されたのは、そんなヨセフの正しさでした。もちろん、ヨセフにとって聖霊の働きは、にわかには信じられない、簡単には受け入れられない言葉だったでしょう。
 けれども、それを信じたなら‥‥‥それは神さまがなさったことだ。神さまの御心だ。そして、そこには必ず神さまが意図されているご計画がある。目的がある。そう信じたなら、見方を変えたなら、現実はガラリとその姿を変えます。閉ざされていた扉が開き、新たな可能性が広がります。正しさを捨てれば、そこに残るものは愛です。愛に包まれ、導かれ、支えられて、人が人と共に生きる人生こそ、神が共におられる場所です。
しかし、実際にはそれがとても難しいのです。自分自身の迷いを吹き払わなければなりません。そして、“お前は間違っている”“悪だ”と責める周囲の見方や言葉に耐えなければなりません。孤立し、孤独に陥(おちい)るかも知れません。
その時、自分と共にいてくれるだれかがいたらどうでしょう?“どんなことがあっても、私はあなたの味方だよ”と言ってくれるだれかがいたらどうでしょう?とても慰(なぐさ)められ、勇気が湧くのではないでしょうか。失いかけていた自信を取り戻すことができるのではないでしょうか。自分はこれで良いのだ、と自分を肯定することができるのではないでしょうか。ヨセフはそのだれかを、神に見たのです。だれが共にいてくれなくとも、神が共にいて究極(きゅきょく)の味方となってくださる。そのような、神の愛を信じたのです。
 「神は我々と共におられる」。神は“私”と共にいてくださる。それは、神の言葉によって与えられる、あなたの判断と行動を、それでよいと認めてくださる愛の声。信仰によって心の内から湧き上がる、霊的なエール(応援)だと言うことができるでしょう。
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 ヨセフは、神の声を聞きました。苦悩の中で、そこに共にいてくださる神のエールを受け取りました。私たちも、苦悩の中に、悲しみの中に、病の中に、困難の中に、迷いの中に、“あなたと共にいる”と語りかける神の声を聞いたなら、信じたなら、それこそが、聖書のクリスマス物語が“おとぎ話”ではなく、魂(たましい)にキリストが宿る、生きたクリスマスの体験となるのです。

 

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