坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年5月1日 主日礼拝説教   「愛を語り続けよ」                       
聖 書  使徒言行録18章1~11節
説教者 山岡 創牧師

18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。
18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、
18:3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。
18:4 パウロは安息日(あんそくび)ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
18:5 シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉(みことば)を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。
18:6 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」
18:7 パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。
18:8 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。
18:9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。
18:10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
18:11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

「愛を語り続けよ」
 私は、高麗川(こまがわ)の土手を、毎日のように歩いたり、走ったりします。意識して歩かないと牧師館と教会を行き来するだけの生活になってしまうので、半分は“通勤”のつもりで歩いています。朝は走って、夜は歩くのですが、夜に歩く時、何か悩み事や不安があると、下を向いて、ため息をつきながら、トボトボと歩いている時があります。
 アテネからコリントに向かうパウロも、ため息を吐き、下を向きながら、トボトボと歩いていたのではないでしょう。と言うのは、アテネの町で、主イエスの救いを、特に主イエスの復活と裁きを話したところ、人々は嘲笑(あざわら)い、“また今度”と体(てい)良く話を打ち切られてしまったからです。つまり、バカにされ、相手にされなかったのです。
 ギリシアの宗教と文化の中心地であるアテネに、意気込んで乗り込んで行ったパウロでしたが、相当自信を失ったかも知れません。だとしたら、伝道に不安を感じながら、人に恐れを感じながら、トボトボと歩いていたのではないでしょうか。次の町にはユダヤ人の会堂があるだろうか?だれにも話すら聞いてもらえなかったらどうしようか?と。
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 そんな不安を抱えながら、パウロはコリントに到着しました。ところが、神さまはこの町で、パウロを励ますために、とてもすてきなプレゼントを用意してくださっていたのです。それは、アキラとプリスキラというユダヤ人のクリスチャン夫婦との出会いでした。二人は、クラウディウス帝の命令によりローマから退去させられ、コリントに流れて来ていたのです。
 この二人と出会い、彼らの家に住み込んで、一緒にテント造りの仕事をしながら、主イエスの救いを宣(の)べ伝える。このことによって、パウロはどんなにか支えられ、勇気づけられ、恐れと不安が解消されたことでしょうか。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(9~10節)。
主イエスは、夜の幻の中で、夢の中で、パウロに語りかけました。
恐れるな。そう言われても、伝道に不安を感じ、人に恐れを感じ、人生に苦悩を感じずにはいられない時があります。そんな時、自分のそばにいてくれる人がいたら、悩みを聞いてくれる人がいたら、支えてくれる人がいたら、どんなにいいでしょう。特にその人が御言葉を分かち合い、祈りを共にしてくれる人だったら、私たちは、恐れから勇気へ、不安から安心へ気持を変わるかも知れません。
 わたしがあなたと共にいる。神さまからそう言われても、それが信じられないような辛く、悲しい時があります。そんな時、自分と共にいて、愛してくれる人がいたら、キリストの愛を基(もと)として互いに愛し合える人がいたら、私たちはそこに、たとえ目には見えなくとも“神”を感じるのではないでしょうか。
 最近、『ディズニー、サービスの神様が教えてくれたこと』(SBクリエイティブ、鎌田洋・著)という本を読み始めました。その冒頭に、2011年3月11日に起こった東日本大震災の日のことが描かれています。震災当日の入園者は7万人。そのうち2万人が帰宅困難者になったといいます。残された入園者たちの緊張と不安の中で、ランドで働くキャスト(従業員)たちは、ある者は親子連れにぬいぐるみを手渡し、ある者は、普段は絶対に目に触れさせないダンボールを、寒さをしのげるように配り、ある者は、ショップのお菓子を笑顔で配ったということです。またキャラクターたちは子どもたちの肩をポンポンとやさしく叩いて回りました。そのようにゲストに寄り添うキャストやキャラクターたちの姿に、一人のゲストはこう言ったそうです。あの日、ディズニーランドで夜を明かしたキャストとゲストは、何かに見守られた1つの大きな家族のようでした。その“何か”とはサービスの神様です。ゲストとキャストの間で「心を動かす何か」が生まれたとき、そこには必ず“サービスの神様”があらわれる、と著者は書いています。
 この感覚、私たちにはよく分かるのではないでしょうか。なぜなら教会は神様に見守られた“キリストの家族”だからです。そして互いに愛し合う喜びと感謝が生まれたとき、そこには“愛の神さま”がおられることを私たちは知っているからです。
 使徒ヨハネは、ヨハネの手紙(一)4章11節以下で、私たちに語りかけます。
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」
 何もないところで、神が私と共にいてくださる、神が私を愛しておられる、と信じることは簡単なことではありません。独りで信仰を貫き通すのは容易なことではありません。だからこそ、神さまは私たち一人ひとりに、互いに愛し合う“友”を備えてくださいます。互いに愛し合う交わりである“教会”につながらせてくださいます。
神は愛である。そして、愛のあるところに神はおられる、とヨハネは伝えます。私たちは、互いに愛し合い、自分を愛し、支えてくれる人の“愛”によって、そこに神が共におられることを感じるのです。そして、この愛の経験、神の体験が、どんな場合でも、たとえ独りになる時でも、神が共にいてくださることを信じることができる信仰の土台となるのです。
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そして、互いに愛し合うことによって神と神の愛を感じ、その愛を土台とした信仰があるからこそ、語り続けることができるのではないでしょうか。パウロを、アテネ伝道の挫折から立ち上がらせた力は、アキラとプリスキラとの交わりを通して与えられた神の愛だったに違いありません。だから、パウロがコリントで語ったこと、語り続けたことは、“神の愛”だったと思うのです。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって示された神の愛だったと思うのです。そして、神に愛されたように、キリストに愛されたように、互いに愛し合いなさい。そこに神は現れる。共におられる。そのようにパウロは“愛”を語り続けたのではないでしょうか。
キリストの愛を語り伝える牧師である“私”もそうです。苦しい時があります。つらい時があります。がっかりする時、ため息が出る時があります。落ち込む時があります。そんな時、キリストを信じる皆さんの存在がどんなに支えになることか。皆さんのちょっとした一言や行動にどんなに励まされることか。皆さんから祈られている、愛されていると思うと、どんなに慰められ、喜びが湧いてくることか。それが、キリストを証しし続ける力、愛を語り続ける力になっているのです。
皆さんもそうでしょう。互いに愛し合うことを通して“神”を感じる。慰めや励まし、喜びを感じる。“愛”を信じることができる。その体験と喜びがあるからこそ、私たちは神を語ることができる。愛を証しすることができる。この町の人々に、家族に、友人に、神の愛の温かさを、互いに愛し合うことの嬉しさを語り続けることができるのです。

 

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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